マルコ福音書 3章7~12節 群衆から身を引くイエス

2021年8月30日

(内容)

  • イエス様は弟子たちと共に湖の方に行かれた。しかし沢山の群衆が押し寄せ、イエスはつぶされそうになったので小舟にのって湖に出ようとした。

(黙想)

  • この場面でイエスは何もしていない。イエスは多くの病人を癒やされたので病気で悩む人たちがイエスのもとに押し寄せた。イエスは群衆に押しつぶされそうだと思ったほどである。
  • この場面に何を見るのか。病気で悩み苦しむ人たちの必死な思いが見える。イエスに触りさえすれば病気は治ると考えていて、必死にイエスのもとに行く。イエスに触ろうとする。神に助けを求める人間の必死な姿を見る。
  • この場面では、イエスは押し寄せる群衆から逃れようとしている。なぜか。イエスは疲れていたのか。他に理由があるのか。それは分からない。この記事から私たちは、病気を癒やすのがイエスの本来の働きではないと知るべきか。イエスは何のためにおいでになったのか、考える必要がある。
  • 他方でイエスは、汚れた霊がイエスにひれ伏し、「あなたは神の子だ」と叫んだとき、自分のことを言いふらさないように厳しく戒めている。汚れた霊はイエスが誰であるかを知っていたとしても、彼らはイエスを信じ、イエスに従うわけではない。汚れた霊の言葉は信仰の告白ではない。だから言いふらすなと禁じた。
    イエスとは誰なのか。イエスは人間の必要を満たすだけの方ではない。
  • 人々はイエスの活動を聞いてイエスのもとに集まった。今教会では、人々の耳目を集めるようなことが行われ、人々が教会に集まる、というようなことはない。教会はイエスの真似はできない。病人を癒やし、悪霊を追い出し、人々の人々の必要を満たすことはしないし、できない。病人は医師のもとへ行けばよい。イエスは罪人を招くために来たのである。
  • この段落は、癒やしなど人間の必要を満たすイエスの活動に区切りを付けているのかも知れない。癒やしなど人間の必要を満たす行動は、神の御支配の証しとして行われたが、イエスがこのことをどれほど語ったのかは分からない。イエスは会堂でみ言葉を語っている(2:3)。具体的に何を語ったのかは分からない。
  • これまでのマルコ福音書の内容をみると、第一にイエスが病人を癒やすなどの働きをして多くの人がイエスのもとに集まってきたことが語られる。第二にイエスは罪を赦す権威を持っていると語り、自分を神のごとく考えているとファリサイ派、律法学者たちから非難されたことが語られている。第三にファリサイ派、律法学者たちは安息日のイエスの行動を咎め、イエスを律法に違反する者として、殺そうと相談を始めたことが書かれている。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>押し寄せる群衆につぶされないように、小舟に乗って湖に漕ぎ出すことを考えている。
  • <御子>汚れた霊に「あなたは神の子だ」と語ることを禁じる。汚れた霊の言葉は、真実の告白ではないから。
☆神が私たちに求める生き方
  • <教え>信仰とは、人間の必要を満たすためにあるものではない。人間の必要を満たそうとする者から、イエスは身を引こうとされている。
  • <教え>信仰の告白の言葉は真実でなければならない。
  • <勧め>イエスは、自分にとって誰なのかを考えること。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日の聖書は私に、イエス様をどのような方としているのか、問いかけてくるように思いました。自分の必要を満たす者たちからイエス様は身を引こうとされました。これまでイエス様を信じ、イエス様を宣べ伝えてきました。
  • 自分は、イエス様をどのように信じているのか、立ち止まりなさいと促しを受けました。折に触れて立ち止まることは大切なのだと思いました。今年老いた者として、イエス様をどう受けとめるのか、思いめぐらしたいと思いました。今朝の導きを感謝します。
☆与えられた導き
  • イエス様を今、どう受けとめているのか、思いめぐらす

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  • イエス様はわたしの主、私の羊飼い。私はこの方についていく。この方に従う。
  • イエス様と私は一つ。私はキリストと共に死に、キリストと共に生きる。私は新しく生まれた者であり、神の子であり、神の前に義人であり、私は罪人ではない。
  • 私はイエス様に似た者となることを目指している。それがこの世におけるキリスト者の歩み。
  • 神の国において、イエス様とお会いすることは、老いを生きる私の希望である。