マルコ福音書 2章18~22節 恵みに立つ

2021年8月9日

(内容)

  • 断食をめぐる問答。そして新しい布ぎれと新しい革袋についてのイエスの教え

(黙想)

  • ここでは人々がイエスのもとに来て、イエスに問う形となっている。ヨハネの弟子やファリサイ派の人々は断食しているのにイエスの弟子が断食をしないのはなぜか、と。イエスの弟子が断食をしないのは、イエスが命じないからだろう。
  • 当時、断食は神の前での謙虚な行為として重んじられていた。ファリサイ名の人たちは週2回の断食を守っていた(ルカ18:12)。一種の宗教的習慣である。
  • 織りたての新しい布きれを古い布きれに継ぎ当てをしないこと、新しいぶどう酒を古い革袋に入れないことは、古いものと新しいものが区別されるべきことを教えている。イエスはなぜこの話をしたのだろうか。イスラエルの社会では、当時、ファリサイ派、律法学者たちが宗教指導者たちであった。それに対してイエスは「否」と言うのである。直前の段落では、イエスは徴税人や罪人とされる人たちと食事の席を共にしている。律法学者たちには考えられないことであった。
  • イエスは、新しい信仰理解をもたらそうとしている。しかしそれは本来の信仰理解である。信仰とは、神の恵みに立って、あるいは神の恵みの下に生きることである。
  • 出エジプトの出来事は、イスラエルの民をエジプトから解放し、広々として実り豊かな土地へイスラエルの民を連れて行くという神の約束、神の恵みを告げる。この恵みに立って歩むかどうかが問題となる。イスラエルの民は神の約束、神の恵みに立たず、荒野の旅で困難にあえば文句を言った。
  • 信仰とは恵みに立って生きること、神の約束を頼みとして生きることである。しかしイエスの時代、宗教指導者たちは律法を守ることこそ信仰と考えるようになった。そこからは宗教的傲慢が生じる。そしてイエスの目は、ファリサイ派の人や律法学者たちの律法遵守に偽善を見る。
  • イエスは恵みに立って生きるよう人々を招いた。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。神の国つまり神の御支配は福音であり、恵みである。この恵みへとイエスは人々を招いた。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>イエスは、恵みに立って生きる信仰を伝える方である。律法を守ることこそ信仰であるという理解には立たない。
☆神が私たちに求める生き方
  • <警告>信仰とは神の教えを守ること、という理解を退けること。神の約束、神の恵みに心を開かなければならない。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、イエス様は信仰とは恵みに立つことを教えておられるように思います。そしてこれは律法主義とは相容れないことを思います。信仰とは恵みに立って生きること、キリスト者は恵みの支配下に生きることをもっと伝えたいと思いました。神さまの教えを守れないことを卑下している人が少なからずおられます。恵みに立って生きることを伝えたいです。
  • 昨日、今度の日曜日の説教奉仕の原稿を書き上げましたが、「恵みに立って生きる」ことを強く訴えたいと思いました。これを一種のキーワードとし、心に残るように語りたいと思いました。
  • 今日、もう一度説教原稿を推敲することにします。
☆与えられた導き
  • 説教原稿を推敲する。