第二コリント 5章1~10節 主に喜ばれる者

2021年8月12日

(内容)

  • パウロは、私たちは地上の住みかを離れて天にある住みかに行くことを告げる。そして地上にあっても、天にあっても主を喜ばせる者でありたいと願う。

(黙想)

  • 1節。地上の住みかは滅びるが、天にある永遠の住みかが私たちに備えられていることを知っているとパウロは書く。信仰者は地上の生を終えても天上の生があることを告げる。
  • 2節。パウロは「天から与えられる住みかを着る」と語る。天に移されることを「天の住みかを着る」と表現する。「着る」という表現にパウロはこだわりを持っていると思う。ガラテヤ書には、「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と書いている。パウロハなぜ「着る」という表現を用いるのだろうか。コリント一15章では、復活することを「死ぬべきものが死なないものを着る」とある。
  • 人間は裸で生活しない。着るものを着ている。何を着るか、おしゃれをし、自己表現をすることもあるし、パウロの時代も、裕福な人はそれなりのものを身につけたと思われる。パウロがおしゃれを考えていたとは思えない。
  • 要するに人は着るものを必要としている。パウロが着る物に言及するのは、人の生き方を示すためではないか。キリストを着る、これはキリストを信じて生きることを示唆する。
  • エフェソ書には、古い人を脱いで新しい人を着るとある。
  • 天の住みかを着ることを願う私たちは、天の住みかを待ち望む者であることを言い表している。
  • 天の住みかを着ることを願う私たちは、地上では「苦しみもだえています」。これが地上における生活の現実である。パウロはキリストを宣べ伝える中で、苦しみを味わっている。パウロは苦しみを避けることを第一にはしてはいない。キリストを宣べ伝えることが第一であり、教会を守り導くのが第一である。
  • 3節。地上の幕屋、地上の住みかを脱ぐことを語る。脱いだら裸になるので何かを着なければならない。裸のままというわけにはいかない。地上の住みかを脱ぎ、苦しみから逃げようとしても、次にどうするかを考えなければならない。ただ苦しみから逃げるだけというわけにはいかない。
  • 4節。むしろ天からの住みかを着ることを願う。地上の住みかにいて重荷を負っているが、これから逃げたいわけではない。天の住みかを地上の住みかの上に着るという。地上の住みかを脱いで、天の住みかを着るのではない。着替えるのではない。地上の住みかの上に着るのである。それを「死ぬはずのものが命に飲み込まれる」という表現をする。神の力が働いていることを予想させられる。
  • これは4章10~11節で語ったことと同じことを語っている。

コリント二4:10~11
わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。

あるいは、

コリント一15:54
死は勝利に飲み込まれるという表現もある(コリント一15:54)。

  • キリスト者は天に向かって生きている。地上の歩みは天における生へ続いていることを示している。
  • 5節。これがキリスト者の生であり、神が与えてくださったものである。そして神は霊を与え、キリスト者の生を支え導く。霊を保証として与えるという表現は、エフェソ1:14にもある。信仰者が信仰に生きることを可能とするために、神は聖霊を信仰者に与えてくださる。
  • 6節。体を住みかとしている限り、つまり私たちが地上に生きている限り、私たちは主から離れている。主が共におられることを信じるが、主は天におられる。主は天におられるからといって私たちと関わりを持つことができないのではない。私たちに霊を与え、導かれる。だから私たちはいつも心強い。
  • 7節。私たちは目に見るものによらず、信仰によって歩んでいる。主が共におられることを信じて歩んでいる。
  • 8節。主が共にいてくださることを信じ、私たちは心強い。パウロは同時に主のもとに住むことを望んでいる。天の住みかに迎えられ、主と共にあることを望むのである。パウロは、主のもとに住むためなら、死ぬことは益であると語る。パウロは主のもとに行くことを熱望している(フィリピ1:21~23)。
  • 9節。地上にあっても天上にあっても、主を喜ばせることをひたすらパウロは願う。
  • 10節。主を喜ばせることを願うのは、人は地上の生で行ったことに応じて報いを受けねばならないから。終末の審判である。ここで「あなたは良くやった」と言われたい。それがキリスト者である。
  • 私たちの生は、地上で終わらない。天上の生活へと続く。ある意味、連続している。地上での苦しい歩みを悲観する必要はない。天上での命が待っている。「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(4:17)。
  • 主に喜ばれる者であることが大切なのである。それがキリスト者の目指すことである。地上の歩みには、苦しみもだえたり、重荷を背負わされることがある。それらは絶望をもたらすものではない。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>神は天にある永遠の住みかを用意してくださる方。
☆神が私たちに求める生き方
  • <教え>天の住みかを待ち望むこと。
  • <教え>地上での苦しみ、重荷は避けるべきものではない。それらは命に飲まれるべきものである。
  • <勧め>主に喜ばれる者であること

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、私たちの地上の歩みは、重荷があり、苦しみもだえることもあります。そして天の住みかが私たちを飲み込むとあります。パウロは死を越える希望を表現しています。死を越える希望は、今を生きることを支え、あるいは導きます。
  • 今日は、主に喜ばれる者でありたいとパウロは書きました。主に喜ばれることをしたい、ではなく、主に喜ばれる者でありたいです。自分の存在、生き方、あり様が主に喜ばれる者でありたいとの願いです。私は、これを目指して生きてきたと思っています。もちろん十分だとは思いませんが、努力してきました。
  • 天の父よ、さらに主に喜ばれる者になるとしたら、どうしたらいいのでしょうか。もう一歩、成長していまよりもさらに主に喜ばれる者になるとしたら、どうしたらいいのでしょうか。
  • 今日は、このことを祈り、あなたの導きを求めたいと思います。
☆与えられた導き
  • 祈る

~~~~ 祈り ~~~~
天の父なる神さま、
パウロは、主に喜ばれる者でありたいと書きました。
私も主に喜ばれる者でありたいと願います。
これまでも主に喜ばれる者でありたいと願い、生きてきたつもりです。
もちろん、それが十分であったかどうかは別です。
自分の歩みには欠けがあることは知っています。
不十分であることも知っています。
完璧な歩みは目指しません。
喜んで、主に喜ばれる者であることを目指せればと思います。
今日は、今ひとつ、さらに主に喜ばれる者になりたいと思いました。
私は今、老いの中に生きています。
教会の働きからは引退しました。
それでも何とか、少しでも福音を伝えたいと願っています。
そんな私が主に喜ばれる者となる、それは考えて分かることではないので、
天の父よ、教えてください。
主に喜ばれることをしなさいではなく、
主に喜ばれる者になりなさいですね。
心のあり様、関心の向け方、今の自分から脱皮する必要があるかもしれませんね。
聖書を思いめぐらす中で教えてくださるようにお願いします。
今度の日曜日、説教奉仕の機会が与えられています。
大胆に福音を語る者でありたいです。
福音を伝えたいと思います。導いてください。
主に喜ばれる者になる、導いてください。
イエス・キリストの御名により祈ります。