マタイ福音書 5章27~30節

2020年7月17日

(内容)

  • 十戒に「姦淫をするな」を命じられている。姦淫は、文字通りの行為として禁じられるだけでなく、心の中でみだらな思いで女性を見る者もこの罪を犯しているとイエスは教える。

(黙想)

  • 神の戒めは文字通りに守っていればよいというわけではない。神の教えの精神、その深い内容を理解しなければならない。ファリサイ派や律法学者たちは文字通り姦淫を犯さなければ、この戒めを守っているとした。それが彼らの義。クリスチャンの義は、それを上回る義でなければならない。イエスは心を問題としている。みだらな思いで女性を見る者は、心の中で姦淫を犯しているという。何が問題なのか。
  • 姦淫は夫婦関係の破綻をもたらす可能性がある。心の中だけなら、夫婦関係に問題をもたらすことは少ないかも知れない。相手が知らないから。しかし夫婦関係は人格で結ばれる関係である。女性を欲望の対象として見ることは、相手の人格を無視することになる。みだらな思いで女性を見る行為をするなら、夫婦関係においても妻の人格を軽視することにつながる。
  • 現代では、欲望を駆り立てる媒体がいろいろある。女性をみだらな思いで見るだけではなく、セックスに関わる様々な情報は刺激を与え、欲望を助長する。その意味では危険である。それらのものに対しては目を背けなければならない。
  • 目や手が私たちをつまずかせる、つまり罪を犯させるとイエスは述べた。ちょっと立ち止まって考える必要がある。目は見る機能を持つ。もしみだらな思いで女性を見始めたら目をそらせ、別なことをするなり考えればよい。目が人に罪を犯させるわけではない。罪を犯すのは、私たち自身である。手を伸ばして物を盗むということがある。しかし手が勝手に動いて物を盗むことはない。盗もう、盗みたいという思いがあるから、手を動かしてしまうのである。問題は私たちの心にある。
  • ではなぜイエスは右目をえぐり出し、右手を切り落とすようなことを語ったのか。目がなければ、淫らない思いで女性を見ることはない。手がなければ物を盗むこともない。つまり罪を犯さない。罪は決して犯してはならないとイエスは教えているのではないか。
  • イエスは地獄に言及した。地獄は罪を犯した者が最終的に行くところであり、罪に対する責めを受けるところであり、そこにはもはや赦しはない。神の裁きを信じるなら、地獄の存在は信じるべきである。そして神に造られた人間が地獄に行くようなことがあってはならない。だからイエスは十字架の死を遂げられ、人々を罪から救おうとされたのである。
  • 現代人は地獄をまともに信じない。信仰者はどうだろう。終末の神の審判すら本気では信じられていないかも知れない。イエス・キリストによる罪の赦しを信じるクリスチャンは、罪を犯しても赦される、と受けとめ、罪を犯すべきではないという考えが弱くなることもありうる。
  • 私たちには、自分が罪を犯すことを許容する心があるような気がする。理由は二つあるように思う。一つは福音を罪の赦しに限定して考えているから。私たちは罪を犯さずに生きてはいけない。でも赦しは与えられる。そう考えるので罪を犯すことを許容する。そうしないと生きていけない。福音は罪の赦しだけではなく、私たちを罪から解放し、聖化の歩みを導く。これを知らないから、罪を犯すことを許容する。
  • 第二に神の裁きを真剣に考えていないから。裏返せば、神を本当には畏れてはいないから。もし神を畏れ、罪を忌避したいと考えるなら、聖書を読み、福音を知るはずだ。聖書が伝える福音は罪に勝利する福音である。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>私たちが罪を犯すことを願わない方。
☆神が私たちに求める生き方
  • <罪>女性を欲望の対象として見ること。それは女性を人格をもつ存在として見ないことにつながる。
  • <命令>罪は絶対に避けるべきもの。罪を犯すことを自分に許してはならない。
  • イエスは罪を赦すためにだけ死んだのではない。イエスは、私たちが罪を犯さず神の子として生きていくために復活された方であり、私たちの罪を犯す古い人間は死んだのであり、神の子として神の御心を行うものとして、新しい人間に生まれ変わったことを知る必要がある。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日の聖書を読んで、罪は絶対に避けるべきであると考えていなかったことを知らされました。罪を犯していいとは思っていませんでしたが、罪を許容する心が私(たち)の内にあるように思いました。「罪を絶対に犯してはいけない」と語れば「それは無理だ」との反応が返ってくるにちがいないからです。でもそうしたら「罪を犯してもいいのですか」と切り返し、どうしたらいいのか共に考えることができるようにしたいと思いました。そしてイエス・キリストの福音は、罪の赦しの福音だけではなく、聖化の福音でもあります。
  • あらためて福音が狭く理解されていることを思わされました。このことを何とかしたい、それが私の使命であると考えています。罪は絶対に犯してはならない、そのように考えるべきであると自分に教えます。そして自分がそのように考えることができる道筋を明らかにします。それをブログで発信したいと思います。
☆与えられた導き
  • ブログに発信