第一コリント 9章13~18節

2020年11月4日

(内容)

  • パウロは、自分の使徒としての誇りは使徒としての権利を用いないことにあると語る。福音宣教に際し生活を支えてもらう援助は受けないことにしているという。それは彼の誇りである。

(黙想)

  • 13節で「あなたがたは知らないのですか」という。これはパウロがよく用いる表現である。是非知っておいて欲しいという意味で用いられているように思う。
  • 神殿、祭壇で働く人を例に出し、福音を宣べ伝える者は、福音によって生活の資を得るようにと主は命じたと書く。福音宣教者は信者たちから生活の支えを得るように主イエスは指示された。是非知って欲しいとパウロは語る。そして生活の資を得る権利をパウロは使わなかったという。
  • 使徒言行録18章には、パウロのコリントでの伝道の様子が書かれている。パウロは、テント造りの仕事をし、安息日に宣教したと書かれている。パウロは自分で働きながら、人から援助を受けることなく、福音を宣べ伝えたことになる。シラスとテモテがマケドニア州から来るとパウロは、み言葉を語ることに専念したとあるので仕事はしなくなったと思われる。
  • 僕自身は牧師として福音を宣べ伝える働きをしたが、教会から「謝儀」をいただいて生活した。牧師が得る収入は「謝儀」と言い、給料とか報酬とは言わない習慣がある。パウロによれば、この謝儀は福音宣教者の権利となる。しかしパウロはこれを用いなかった。現代では教会から謝儀を得ないで伝道する人は少ない。生活の糧を得るために仕事をしながら福音を伝えるのはむずかしい。教会から生活の資を得ることは、恥ずかしいことではない。ただパウロはその権利を使わなかった。
  • パウロはなぜ、使わなかったのか。パウロにとって福音は宣べ伝えずにはおれないものである。告げ知らせないなら、それは不幸だという。宣教という働きをして報酬を得るか否か、に関係なく、パウロは宣べ伝えたいのであり、報酬を得ないで宣べ伝えることが彼の誇りであり、この誇りが彼の報酬だという。すぐには共感はできない。
  • 教会から生活の資を得るかどうかは別として、僕自身も福音を伝えるように召された者であると信じる。そうせずにはおれない、という点はパウロと共通している。だから今、インターネットでブログを書き、福音を伝える働きをしている。勿論、無報酬。
  • この段落は8章から続いている。8章では、キリスト者は偶像にささげられた肉を食べる自由があること、しかし他の信仰者をつまずかせる懸念があるときは、その自由を使わず、食べない。人をつまずかせないという愛の配慮が自由より優先している。パウロは自分も同じことをしていると自分のことを紹介しているのが、この箇所。使徒としての権利を使うことはできるが、それ以上に、パウロの使徒としての誇りが優先すると語っているように思う。福音を伝えるという使命が優先している。12節では、福音を妨げないように、すべてを耐え忍んでいますと語っている。福音を伝える、それを一番優先させている使徒パウロがここにいる。
  • 福音を伝えることは使徒だけの働きではない。普通の信仰者も証しをして福音を伝える働きをしている。無報酬である。福音を伝えたいとの思いに駆られるのである。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • <模範>何よりも福音を宣べ伝えることを大切にするパウロの生き方。
  • <教え>福音とは本来伝えずにはおれないもの。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、パウロの使徒としての姿に敬意を表します。私は今、牧師の働きからは隠退し、自由の身です。自由の身だからといって、やりたいことが沢山あるわけではありません。いやそんなにありません。多くのことはしてもしなくてもどちらでもいいのです。
  • やはり何らかの形で福音宣教の働きに関わりたいというのが正直な気持ちです。健康が許す限りこの働きを続けたいと思います。時間的にゆとりがあるので学びもできます。
  • 最近の生活を振り返って、ブログを書くのは夜ではなく、昼間にしたいと思いました。心にゆとりをもって書くためです。午前中はデボーションをしているので、午後に書くようにしたいと思いました。今日のブログは午後書くことにします。
☆与えられた導き
  • 午後ブログを午後書く