ローマ 1章1~4節(1) 主イエス
2022年4月29日
(内容)
- パウロは、キリスト・イエスの僕と自己紹介をし、キリストとの関係を語っている。
(黙想)
- パウロはキリストとの関係を語る。まずキリスト・イエスの僕という。キリストに仕える僕という自己理解である。そしてキリストはパウロにとって主イエス・キリストである。「主」という言葉を使うとき、暗黙の内にキリストと主従関係にあることを語っている。パウロはキリストの僕であり、キリストはパウロの主である。
- 次にパウロは、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったと語る。だれがパウロを選び出し、召し、使徒としたのかは明示されていない。神であるのか、キリストであるのかは明確ではない。使徒言行録9章では復活の主イエスがパウロに現れ、彼を使徒に召している。ガラテヤ書では、神がパウロに御子を示し、使徒としている。パウロとしては、自分から志したのではなく、神の側からの働きかけによって、使徒とされたことを語る。神の福音を広めるという目的のために、選び出され、召されたと理解している。あくまでも自分から志したのではなく、自分で選んだのでもなく、逆に彼が選ばれたのであり、呼びかけられたのである。
- 使徒という言葉は「遣わす」という言葉から来ており、何かの目的のために派遣される人を意味する。パウロは神の福音を宣べ伝えるために神から遣わされた人なのである。
- パウロの自己理解。
・キリスト・イエスの僕
・神から選ばれた者
・神の福音のために召された者
・神の福音のために遣わされる者
・キリスト・イエスを主とする者 - すべての信仰者は、パウロと同じ自己理解を持つべき存在である。そして私も。私は神から選ばれてキリスト者となり、さらには牧師となるよう選ばれた。そして神の福音を伝えるという使命を与えられ、福音を宣べ伝える働きのために遣わされた。そして私はキリスト・イエスの僕であり、キリストを主とする者である。
- 世の多くの人は、自分が人生の主人公であると考え、自分が自分の主であると考える。世の人は仕えるべき「主」を持たない。組織の中で上司に仕えることがあってもそれは仕事上のことであり、人生における「主」は自分であり、人は自分のために生きている。キリスト者は、キリストを主として生きるように選ばれ、召された存在である。イエスを主として生きるためには、自分を主とする生き方にある意味絶望することが必要である。そうしないとなかなかイエスを主とするとはできない。現実のキリスト者は、誰を主として生きるか、自分か、イエスか、どちらを主とするか霊的な戦いをしていると言える。
- 僕は今、イエスとの深い交わりに生きていきたいと願っている。キリストを主とし、キリストの僕として生きることが必要であり大切である。聖書を読み、神の言葉を大切にしてきた。しかし神の言葉の向こうにいる、神、イエス・キリストにどれほど心を向けてきたのかと思う。言葉はだれかが発するものである。発する人のことを常に覚えなければならない。
- またイエスを主とするなら、呼び方も考えなければならない。イエス様から主イエスへと変えよう。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>御子キリストは主である。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>私たちはキリストを主と仰ぐ生き方、歩みをしたい。自らの自由な選択として、このような歩みをしたい。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日はあらためてイエス・キリストがわたしの主であることを受けとめました。そして私はキリストの僕であることを心に留めることにしました。それゆえ、今日からは、主イエス、主イエス・キリストと呼びかけ、イエス様という呼びかけはやめることにします。イエス様という表現は、敬う表現ですが、自分と主イエスの関係が明確に示されていません。それゆえ今後は主イエスと呼びかけることにします。
- また聖書を読むとき、書かれている言葉を読むのではなく、言葉の向こうにおられるあなたを、主イエスを常に意識して読みたいと思いました。これはどのようにしたらいいのか、分かりませんが、聖書を読む前の祈りで、その気持ちを言い表したいと思いました。導いてください。
☆与えられた導き
- イエスのことを今後は主イエスと呼ぶ
- 聖書を読む時、神の言葉として、主イエスの言葉として聞くことを告白する祈りをする。