第一コリント 13章1~3節 最高の道としての愛
2020年1月2日
(内容)
- 愛がなければ、どんな異言を語ろうとも、奇跡を行う信仰を持っていても、どんな自己犠牲も価値がない。
(黙想)
- パウロは「最高の道を教える」と言って愛を語る。人々の異言、天使の異言を語っても、預言する賜物を持っていても、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がなければ無に等しいと語る。
- なるほどとは思う。それほどに愛は素晴らしいものなのだという。残念ながら、にわかには共感しがたいものがある。異言、預言、信仰はみな聖霊の賜物である。特に山を動かすほどの信仰が与えられたら、どんなにか素晴らしいことかと思う。病気で苦しんでいる人を助けることができるだろう。色んな苦しみの中にいる人を奇跡によって救えるかも知れない。正直言えば、このような信仰よりも愛がすぐれているとはすぐには納得できない面がある。愛がそれほどにすぐれているということが正直分からない。聖霊の賜物の方を選びたい気持ちがある。
- 全財産を貧しい人に施すとある。あるいは誇ろうとして自分を犠牲にするとある。どちらも自分はしたいと思わないので、これらの行為は愛がなければ何の益もないと言われても、ピンとこない。
- パウロはなぜ、愛を最高の道といい、異言、預言、信仰というすばらしい聖霊の賜物より愛の方が尊いというのか。すぐにはパウロには共感できないのが私たちの正直な気持ちではないか。このような私たちの気持ちに目をふさぎ、「愛はすばらしい」と言葉をもてあそぶことはできる。でもそれは意味がない。
- この世に生きている人は、愛は大切だと言うだろう。しかし人は、愛よりももっと大切なものがたくさんあると考えて生きている。それが世の人の現実ではないか。そして信仰者にもその思いはあるにちがいない。パウロが愛を最高の道という時、この道を歩みたいとは思わないし、なぜそうしなければいいのか分からない。
- パウロはなぜ、愛を最高の道と言うのか。そしてなぜキリスト者はこの道を歩むのか。これは真剣に考えなければならない。いや真剣に考えたい。
- パウロは神の御子イエス・キリストの十字架の死に愛を見ていることは間違いない。神はわが子を人間を罪から救うために死に渡す。そこに神の愛がある。また御子は自らを十字架で犠牲にする。そこには父なる神に従順に生きる父への愛があり、罪人を愛し自らを死に引き渡す罪人への愛がある。
- 父なる神の愛はともかく、自ら十字架についたのは人間イエスである。彼は私たちの主であり、私たちは彼に倣う者である。しかし私たちが最高の道である愛に生きようと思わないのは、愛が何か知らないからではないか。愛よりも聖霊の賜物に憧れるし、全財産を施したり、自分の命を犠牲にすることなど到底できない。
- 私たちは愛を知らないのではない。知ろうとしないのだ。父なる神に十字架の死に至るまで従順に生きる神への愛、罪を犯す人々のために自らを犠牲にする愛、このような愛に生きるように勧めてほしくない。そんな本音がわたしにはある。愛とは何か。それは神の愛、イエスの愛の中に見ることができるとパウロは語っている。
- 私の心の底には自己愛があるというか、心の底は自己愛でできているようだ。神の愛が自分に向けられることは歓迎するが、その愛に生きようとは思わない、思えない。それが自分。
- しかし待て。からし種一粒の小さな信仰についてイエスは語った。からしの種のように小さい愛でいいから、愛に生きればよいのではないか。自分の全存在が愛になる必要はない。それは無理である。しかしからし種一粒の小さな愛に生きることはできる。では愛とは何か。4節以降で語られている。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>どのようにすばらしい霊の賜物でも、愛がなければ、無にひとしい。
- <教え>どのようにすばらしい施しや自己犠牲をしても、愛がなければ何の益もない。
- <罪>愛に生きることに抵抗する自己愛が私たちのうちにある。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、私たちは愛を知りません。愛が何か、それは十字架のイエス様において現れているとパウロは教えているように思います。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:8)。
- 霊のすばらしい賜物も愛がなければ無に等しいとパウロは語りますが、私たちは愛よりも霊のすばらしい賜物の方を選びます。愛がそれほど尊いのか、すぐには理解できません。愛はすばらしい、それには反論できません。でも私たちは愛に生きることができない、いや愛に生きたくない、それが私たちの本音です。私たちの心の底に張り付いている自己愛は、簡単にははがれません。
- 天の父よ、13章4節以下に愛について書かれています。それは単に愛がいかなるものかを語っているのではなくて、神の愛を語っているのですね。あなたご自身の愛が書かれているのですね。パウロはあなたの愛がいかなるものかを書いているのですね。
- 聖書の次の箇所、愛について、神の愛について黙想することを楽しみにします。黙想を導いてください。今日は神さまの導きを祈ることを適用とします。
☆与えられた導き
- 神の導きを祈る。