第一コリント 13章6節 不義を喜ばず、真実を喜ぶ

2021年1月28日

(内容)

  • 愛は不義を喜ばず、真実を喜ぶ。

(黙想)

  • これまでは愛はどういう行動をするのかが具体的に書かれてきた。この箇所は、愛は何を喜ぶかを語っている。不義を喜ばず、真実を喜ぶ、それが愛。ここでは不義と真実が対照的に考えられている。パウロは、何を言いたいのだろうか。ここは愛を語っている。それゆえ、これまでに述べた愛に生きることが真実であり、愛を行わないことが不義であると語り、まとめを書いているのかも知れない。そしてキリスト者は愛に生きるべきことを教えている。
  • そして自己中心的な心を持つキリスト者は、愛に生きることが一つの戦いとなる。そこで別な問いかけが生まれる。何を喜ぶかである。人は自分の喜びを求めて生きる。愛に生きることを喜ぶか否か。愛に生きることを喜ぶところに信仰の成長がある。
  • 4節以降に描かれた愛は、イエス・キリストにおいてみられる愛と言ってよいと思う。イエス・キリストは私たちの模範であり、キリストに倣うことは信仰者としての喜びである。キリスト者は愛することを喜ぶのである

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • <教え>不義を喜ばず、真実を喜ぶ

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、愛は不義を喜ばす真実を喜ぶとありました。パウロはこれまで述べたことのまとめとして、このように書いたのではないかと思いました。それで今一度愛するとはどういうことかを読み直しました。
  • 最近の新型コロナウィルスによる感染をめぐっての国会の論議から知る首相の人格と資質、与党の国会議員の態度を見て、不義を感じます。政治家を批判すればそれですむわけでもなく、キリスト者としては彼らのために祈ることとなります。
  • しかし何を祈ればよいのかと思います。これまでも政治家のためには祈ってきましたが、これでいいのか、あるいは祈りの内容を変えた方が良いのかと思ったりします。今思ったことは、国民が納得する政治を行うようにと祈ったらどうかと思いました。政治家に高望みをせず、少なくとも私たちにとって結局、納得のいく政治を行ってもらえればいいと思いました。政治家がどのような政治家になればいいのか、政治家のあるべき姿を回復して欲しいとは思いますが、この祈りはむなしい祈りに思えます。私たちにとっては結局、納得のいく政治を行ってもらえればいいと思いました。そのように祈りを変えてみたいと思います。
☆与えられた導き
  • 国民が納得する政治が行われるように祈る。