第一コリント 13章4節(3)愛はねたまない
2021年1月14日
(内容)
- 愛はねたまない。
(黙想)
- 口語訳聖書の旧約聖書で、神さまはご自身のことをねたむ神であると語った。神の民イスラエルが唯一の神さまを拝まず、偶像礼拝を行ったことに対して、神は偶像に嫉妬するというのである。神の民イスラエルの心がご自身ではなく、偶像に向かっていることに対してねたむと言われる。イスラエルの偶像礼拝、不信仰を非難する言葉が「わたしはねたむ神である」という表現なのではないか。
- 愛はねたまないという場合、自分が他者をねたむ可能性がある。いや多くの人は他者をねたんだことがあるにちがいない。自分にないものを他者が持っていると、その他者をねたむのである。自分にないものを他者が持っていると、私たちはうらやましく思う。うらやむ思いとねたむ思いは少し違うと思う。ねたみには相手に対する敵意が含まれていると思う。妬みは他者を敵にしてしまう。そこに問題がある。その敵意は時に相手を傷つける行為となって現れる。
- ねたみを感じることは、自分にとっても不幸である。しかし人は自分とは違う。その違いが劣等感となったり、優越感になったり、ねたみを生んだりする。自分と他者を比較しなければいい。人はロボットではない。ロボットなら同じもの大量生産できる。人はロボットではなく、一人一人が個性を持つ。言い換えると自分と人は違う。それが人間である。自分は自分、他者(ひと)は他者(ひと)。このように割り切ってねたみに対処するのは人間的な知恵である。
- 聖書から考えるとどうなるのだろう。僕が経験から学んだことは、神との関係で自分を見ることである。自分は神に愛されている、それで十分だという考えである。言い換えると自分と人を比較しなくてよいことになる。人間的な知恵と違うことは、神さまに愛されていると考えることにより、自己肯定ができる。自分はこれでいいのだ、と自分で自分を受け入れることができる。これは割り切りではない。
- 聖書にはタラントのたとえがあり、人は自分に与えられたタラントに応じて生きれば良いと教えられる。タラントの大きい人をうらやむ必要はない。タラントの大きい人は、それだけ大きな責任を負うことになる。ある意味大変なのである。自分に与えられたタラントの量、それは自分にふさわしいと考える。
- ねたみに対処することは若い時の課題だった。ねたみと劣等感は裏腹でもある。自分は神に愛されていると考え、自分を肯定し受け入れることができた。自分の個性を感謝することができるようになった。このような経験はキリスト者のアイデンティティーを考えるように僕を導いてくれたのだと思う。信仰者はイエス・キリストに結ばれ、神の子とされている。大切なことは神の子として生きることである。そこでは自分と他者を比較する必要なんて少しもない。もし比較して、他者のすぐれた点を見いだしたらそれに倣えばよい。倣いたいと思わないなら、他者のすぐれた点は、その人の個性であると受けとめればいい。
- ひとをうらやむ、それは肉の人のすることである。
コリント一3:3
お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。
- 私たちはキリスト者として霊の人になることが大切である。ねたみから自由にされた霊の人を目指せばよい。ねたむ思いが湧いたら、霊の人を目指そうと気持ちを切り換えたらいい。ねたみを覚えることは、自分の歩みを転換するチャンスである。肉の人から霊の人へ。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <警告>他者をねたむことをしない。
- <勧め>自分の個性を神から与えられたものとして自分を受け入れること。さらに自分はキリスト者とされ、神の子とされている。そのことを喜ぶようにする。
(与えられた導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、「愛はねたまない」と教えられました。かつてはねたむ思いがありましたが、自分の個性を賜物と感謝し、またキリスト者のアイデンティティーを考えることにより自分を受け入れ、自分を肯定することによってねたみから解放されたことを感謝します。
- 今日は、ねたむことから自由にされたことを感謝し、この黙想をもとに証しをブログに書きたいと思います。
☆与えられた導き
- ブログに証しを書く