第一コリント 14章1~2節 愛を追い求めなさい
2021年2月15日
(内容)
- 愛を追い求めること、霊的な賜物として異言よりも預言の賜物を熱心に求めなさい。
(黙想)
- コリント教会に起きている様々な問題の解決としてパウロは「愛する」ことを教えた。愛するとはどういうことか具体的に教えた。私たちはもともと愛することがどういうことか分からない。神が私たちに愛を示され、私たちは愛を知り、愛することを教えられる。
- パウロはコリント教会の人たちに神の愛をどのように教えたのだろうか。コリント教会に色々な問題があったことは、彼らが互いに愛し合っていないことを示している。2章によればパウロはキリストの十字架を宣べ伝えたことがわかる。人の知恵の言葉によらず神の力によってコリントの人たちが信仰を持つことを願い、聖霊の導きによって語った。
- どれほど神の愛が伝わったのだろうか。3章ではパウロはコリント教会の人たちをキリストにある幼子だと言った。肉の人であり、霊の人ではないと書いた。だから教会の中に争い、分裂などの問題が起きていた。神の愛を知り、神を愛し人を愛するには、信仰の成長が必要だと知る。
- 「今は鏡におぼろに映ったものを見ている」(13:12)。私たちは神の愛について聞くが、結局は神の愛を「おぼろに」しか知ることができていないのではないか。神の愛について聞くが、自分が神に愛されていることはぼんやりとしか理解できない。そのために、なかなか人を愛せない。こういう現実があるのではないか。
ヨハネ一 2:3
わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。
- 「神を知っている」ことが分かるという表現がある。神を信じている、というのではない。神を信じていても神の掟を守らないことはある。コリント教会の人たちが身近な隣人、信仰の兄弟姉妹を愛していなかった。それは彼らが神を信じていても神を知らなかったからといえないか。神を「信じる」ことと神を「知っている」こととの違いは何か。
- 「愛を追い求めなさい」は、ただ互いに愛し合おうという勧め以上のものがあるように思える。自分が神に愛されていることを知ること。自分が神に愛されていることを信じることと、自分が神に愛されていることを知ることには違いがある。この違いは大きい。だれかが「私はイエス・キリストを信じています」と言っても、何の違和感も感じない。でも「私はイエス・キリストを知っている」と言われたらどうか。弟子のペトロが言うなら、違和感は感じない。彼はイエスと一緒に生活し行動しているから。しかし礼拝の時に隣にいる人が、「私はイエス・キリストを知っている」と言ったら、思わず「何をどんな風に知っているの」と尋ねたくなる。
- 「信じる」から「知る」、ここに信仰の深まり、あるいは成長があるのではないか。「神の愛を信じる」から「神の愛を知る」ことにより互いに愛し合うことができるようになるのではないか。イエス・キリストを信じることから、イエス・キリストを知ることへ。信仰の追求があるのではないか。愛を追い求めることも、神を知ることにあるのではないか。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>愛を追い求めること。神の愛を信じるだけでなく、神の愛を知ることを求めること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、私たちはあなたに愛されていることを聖書から教えられます。あなたは御子をこの世に遣わし、私たちのためのあがないの供え物とされました。ここに私たちに対するあなたの愛があると教えられ、わたしはあなたを信じ、イエス・キリストを信じました。
- そして私たちも神を愛し、隣人を愛することを教えられ、その努力をします。この努力をする時に、自分の愛の薄さも知らされるます。あなたの愛を教えられていますが、鏡でぼんやり見るかのようにあなたの愛を知らされているような気がします。それゆえ、あなたを愛する愛、隣人を愛する愛において、私たちの愛が中途半端になってしまうような気がします。
- 神の掟を守るなら、神を知っていると聖書にあります。私はあなたの掟に従う努力をしていますし、あなたを知っています。それなりに、です。あらためてもっと深くあなたを知りたいと思いました。まずは「あなたのことを教えてください」と祈ることから始めます。あなたのことを知ってこそ、深くあなたを、そして隣人を愛することができると信じます。
☆与えられた導き
- 「あなたのことを教えてください」と祈る。