詩編116編(1) 神の愛の受けとめ
2023年3月1日
(内容)
- 死の淵に追いやられるような苦難の中で神に助けを求め、救いを得た詩人が、神殿で神にささげものをしようと歌う。
(黙想)
- 出だしは苦難を経験した後の詩人の思いが語られている。主に対する思いが次のように語られる。
・わたしは主を愛する。
・生涯、わたしは主を呼ぼう。
- さらに詩人は、主がいかなる方かを告白する。主は嘆き祈る声を聞き、わたしに耳を傾けてくださる、と。
- 「わたしは主を愛する」。主を愛するとの詩人の意志が告白される。あらためて「愛」とは意志的なものであると思う。そして「愛」は行動となって現れる。またわたしは生涯主を呼ぼうとの告白がなされる。
- 私が誰かを愛する時、相手の人がこちらの愛を受けとめ、愛されていると思うかどうかは、相手次第である。受けとめてもらえないこともある。それは仕方がない。こちらの愛が十分でないこともあるし、相手が受けとめることができる状態でないこともある。
- 聖書は、一貫して人間に対する神の愛を語る。私たちが神に愛されていると受けとめることもあれば、受けとめないこともある。私たちは心で神の愛を感じる時、感激して愛されていると受けとめる。しかし頭で愛されていると受けとめても心では何も感じない、つまり実感できないことがあり、神に愛されていると感激することのないこともある。他の人が神の愛に感激しても、それを冷めた目で見るということもある。
- 神の愛は誰にでも注がれているが、罪人にも向けられる。神は罪人の悔い改めを願う。罪を真剣に考えない人は、神の愛を受けとめることが少ないのではと考える。言い換えると、自分の願いに神が答えてくれるなら神の愛を感じるが、そうでなければ神の愛を感じることはないのである。聖書は罪を犯す者への神の愛を語る。
- キリスト者ならだれでも、神に愛されていることを実感したいと思うだろう。しかし自分を取り巻く現実、自分の現実を見て、神の愛を感じられないこともある。神の愛を語る聖書の箇所を読んでも、感動を覚えないこともある。
- 神の愛も神の意志から生まれる。それゆえ神の愛の意志を見る時、神に愛されていると受けとめることが大切だ。神の愛を心で感じなくても意志で受けとめることが大切と僕は考える。自分が心で感じるか否かではなく、神の意志を見ることができるか否かで判断する。神の愛を見ようとする、それは私たちの神に対する愛と言えるのではないか。
- 詩人の「わたしは主を愛する」との言葉から思いめぐらすことができた。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <模範>私も詩人と同じように「わたしは主を愛する」と告白しよう。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝です。詩人の「わたしは主を愛する」との言葉が心に留まりました。愛は意志であると。それゆえ、聖書からあなたの愛を知る時、あなたの愛を実感するか否かではなく、あなたの意志を見る時に、自分は愛されていると受けとめたいと思いました。
- 創世記に人間の創造の物語があります。あなたはご自分にかたどって人を造られました。ここにはあなたの愛があります。私たちの存在は、あなたの愛のおかげです。しかし私たちは自分の育つ家庭、成長する過程で経験したことから、誕生したことを必ずしも喜べないことがあります。自分の誕生は神の愛によるとは受けとめられない時もあります。
- しかし今日、詩人の告白を呼んで、愛は意志であることをあらためて覚えました。あなたの愛の意志がある時、そこに愛を見るようにしたいと思います。
- 今日は、自分は神に愛されてこの世に誕生し、今も生きていること、あなたにいつも愛されて生きていることを覚えたいと思いました。祈りにおいて、あなたの愛に感謝を献げることにします。
- また友人の手紙にどう返事を書いて良いか分からずにいました。友人とわたしではあなたの愛の感じ方が違うようで、それが戸惑いを与えていたのだと思います。ちょっと冷静に手紙の内容、友人の感激を受けとめたいと思いました。
☆与えられた導き
- 神の愛に感謝を献げる。
- 友人の手紙を読み直す。