第一コリント 12章27~31節 テーマは教会
2020年12月31日
(内容)
- 教会はキリストの体であり、信徒はその部分である。神は様々な務めを担う者を立てた。使徒、預言者、教師など。
(黙想)
- パウロは、いろいろな霊の賜物があり、それは全体の益になるためのものであることを語った。ここでは賜物ではなく、務めである。霊の賜物は聖霊が与え(12:4)、務めは(12:5)主が与える。
- この段落は務めについて書かれている。色々な務めがあるが、これもまた全体の益になるためにある。そこに優劣はなく特定の務めを与えられていることを誇ることは間違いである。「皆が使徒であろうあ。皆が預言者であろうか」という問いは様々な務めがあることを前提としていて、特定の務めを追い求め、誇るべきではないこと、各自は与えられた務めをキリストの体の部分として果たせばよいことを語っている。
- コリントの教会では、異言の賜物をめぐってこれを誇る者たちがいて教会の中に混乱があったようだ。ここでパウロは、もっと大きな賜物を求めなさいと語る。13章で、それは「愛」という賜物であることがわかる。全体の益に仕えることもまた主の教会を愛する愛のわざである。愛がなければ異言を語っても騒がしいドラに過ぎない。
- 基本的に信仰者の歩みは仕えることにあるのではないか。
- キリスト者は教会に属し、キリストの体の部分である。キリスト者は教会に属し、教会員となる。しかし単なる会員ではない。会費を払い、会員としての特典を受けるような存在ではない。キリストの体の部分である。この理解、認識は大切である。このことを教えることができる。しかしこのことを喜びを持って受けとめ、キリストの体の部分として歩むように促すにはどうしたらいいのか。答えは明らかではない。これは探求する価値のあるテーマだ。これが明らかになれば、教会はもっと生き生きとするのではないか。
- 教会に属するキリスト者は、教会はキリストの体であり、信仰者はその部分であることは教えられており、知っていると思われる。しかし部分として何をしたら良いのかは必ずしも明確ではないと思われる。教会における奉仕、長老、教会学校の教師、その他の奉仕を行うことは部分としての働きになる。しかしそれらの奉仕に携わらない人たちはどうなるのだろう。教会のお客様みたいになってしまうのか。祈りの奉仕は語られている。週報に祈りの課題が掲げられ、祈りの務めを負う。あるいは委員会などがあり、委員として奉仕するのも部分の働きである。
- 部分として働くことを喜びとするにはどうしたらいいのか。決して義務となってはいけない。自分がキリストと結ばれていることがポイントになると思う。キリストに結ばれていることは聖化にもつながってくる。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>父なる神は教会の中に色々な務めを負う者を立てられた。
☆神が私たちに揉める生き方
- <教え>教会には様々な務めを負う者を神が立てられ、キリスト者はキリストの体の部分としてその務めを担う。
- <教え>キリストの体の部分として務めを負うので、特定の務めが他の務めにまさるというようなことはない。教会には様々な働きがあり、異なる部分の働きが必要となる。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、教会について思いめぐらすことができて感謝します。今日もまた、教会がキリストの体であるとするパウロの理解に驚きます。どのようにしてパウロはこのような理解、認識を得たのかと思います。パウロのたどった道筋を理解しないと、キリストの体の部分として務めを負うことの大切さを理解したり、喜びを得るのが難しいのではないか、と考えます。
- 新しい年、2021年は教会を考える年になりそうです。聖霊の導きを得て聖書と対話しながら教会について深く思いめぐらすことができるように導いてください。私の来年のテーマは「教会」です。テーマを与えてくださり、感謝します。壁に「テーマは教会」と書いた紙を貼り、常に覚えるようにしたいと思います。
☆与えられた導き
- 「テーマは教会」と書いた紙を壁に貼る。