第一コリント 15章29~34節 キリストの命がこの身に現れる
2021年5月5日
(内容)
- 死者の復活がなかったらどうなるか、いくつかの例を出して、死者の復活を論証する。
(黙想)
- 29節。まず死者のために洗礼を受ける人たちがいると書く。彼らはなぜ、死者のために洗礼を受けるのか。死んだ人が復活することを願うからである。おそらく自分の親しい者たちがイエス・キリストを信じないままで死んだのだろう。自分はキリストを信じ復活する。しかし彼らはどうなるのか。彼らも共に復活して欲しいとの願いから、死者のための洗礼を受けるのだろう。これは死者の復活を信じればこその行為である。
- 30~31節。パウロはキリストを宣べ伝えている。その時、彼は「いつも危険を冒している」という。つまり迫害を受けており、身に危険を招いているということだろう。さらに日々死んでいるとさえ言う。コリント二4章のパウロの言葉を見てみる。
コリント二 4:8~11
わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。
- パウロはキリストを宣べ伝える中で迫害を受けたり、さまざまな困難に直面する。でも行き詰まらず、失望しないと語る。彼にとって四方から苦しめられ、途方に暮れ、虐げられることは、「イエスの死を体にまとっている」「耐えず、イエスのために死にさらされている」ことである。15章では、「日々死んでいる」と語る。キリストは迫害を受け十字架で死んだ。パウロにとってキリストを宣べ伝える中で、迫害を受け、困難に直面することは、キリストの死にあずかることであり、それはキリストの復活にあずかることにつながる。だからパウロは希望を失わないし、宣教をやめることもしない。むしろ復活したキリストが彼の道を導き、宣教の実を結ばせてくださると信じる。この復活のキリストの働きを「イエスの命が現れる」(コリント二)とパウロは語る。
- 「なぜわたしはいつも危険を冒しているのか」。それは積極的な意味は書かれていないが、キリストの命がこの身に現れるためであるというのがパウロの理由と思われる。
- 32節。人間的な動機からエフェソで野獣と戦ったとしたら、私に何の得があったでしょうと語る。野獣と戦うことは迫害を受けることと言える。人間的な動機でキリストを宣べ伝え、迫害を受けても何の得もないという。たとえば立派な伝道者と認められたいと願い(人間的な動機)、キリストを宣べ伝え、迫害を受けたとして、それで立派な伝道者と人々から認められたとしても、何の得にもならないとパウロは言う。パウロにとって大切なのはキリストのいのちが彼の身に現れることなのである。
- もし死者の復活がないなら、そしてキリストの復活がないなら、キリストを宣べ伝え迫害を受けることに意味はない。キリストのいのちが自分の身に現れることはないのだから。それなら、食べたり飲んだりする方がよいとパウロは語る。彼にとって大切なことは、キリストのいのちが自分の身に現れることである。
- 33節はどういうことか.「悪いつきあいは良い習慣を台なしにする」。一種の格言に見える。この場合どういう意味になるのか。悪いつきあいとは何か。コリント教会に何かあったのか。
- 34節では、罪を犯してはならないと警告し、理由として神について何も知らない人がいるからと語る。コリント教会には信仰に入ったばかりの人がいて、彼らをつまづかせてはならないと警告している。つまり信仰の初心者に対して、悪い見本を示してはならないということか。そして最後に「あなたがたを恥じ入らせるためである」と書く。これはきつい文章である。
- キリストが復活しなかったら、信仰者は結局「罪の中にある」(17節)ことになる。それで良いのか、とパウロは語っているのだろうか。
- 二つのことを考える。一つは未信者の家族の行く末。彼らは死んだ後どうなるのか。聖書はすべての人が神の国に行くとは教えていない。そしてだれもが神の裁きを受けると教えている。私たちにできることは彼らに福音を伝え、証しをすることである。聖書には信じる者に対して永遠の命が与えられると約束をしている。未信者の行く末については、必ずしも明確とは言えない。牧師の任にある時、未信者の葬式の時に何を語るのか、悩んだ。
- 今ひとつは、イエスの命がこの身に現れるということ。そのためならパウロは迫害を受けてもよいと考える。キリストのいのちが自分の身に現れることを一番大切に考えている。これは素晴らしいことと思う。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>キリストに結ばれて生きること。キリストの命が自分の身に現れることを願うこと。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日のディボーションを感謝します。自分の身にイエスの命が現れているのか、と考えさせられます。そんな風に考えたことはありませんでした。しかし、私自身の歩みを振り返る時、イエス様の命に生かされているからこそ、今の自分があるし、イエス様の命に生かされているからこれまでの自分の歩みがあることを思います。これは感謝なことです。いや、もっと感謝し喜んでいいことだと思いました。ペトロの手紙にはイエス様を信じる者は「言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれている」(ペトロ一1:8)とあります。それは信仰の実りとして魂の救いを受けているからとあります。イエス様の命が現れることは魂の救いの現れということができますね。
- 天の父なる神さま、言葉では言い尽くせない喜びに満ちあふれることは、神秘的な経験ではないとするなら、その喜びを発見していくことが大切となりますね。キリスト者の喜び、これを一つずつ証しできたらと思いました。テーマとします。発見していきたいと思います。導いてください。
- 今日は一つの喜びを発見しました。きっと自分が見つけていない喜びがあるのだと思います。見つけるたびに証しをしていきたいと思います。今日は、この喜びをブログで証しをしたいと思います。
☆与えられた導き
- イエスの命がこの身に現れる喜びをブログに書く。