第一コリント 15章26節 死は滅ぼされた

2021年5月3日

(内容)

  • 世の終わりが来た後、最後の敵として死が滅ぼされる。

(黙想)

  • 死は私たちの敵とある。しかし普通の人は死を、生命を有する者に起こる一つの自然現象、出来事と考える。しかし聖書は自然現象とは考えない。まず私たちの生死を握っているのは神である。私たちの死の時を決めているのは神である。

コヘレト 3:1~2
何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時・・・

  • 私たちの命に終わりを定めるのは神であり、その終わりが死である。
  • 人は自分に死ぬ時が来ることを思う時、死の恐怖を感じる。もし死が自然現象であるなら、なぜ人はこれを恐れるのか。人は考える存在であり、自分の存在が死により消えてなくなることを考えれば恐れるのは当然かも知れない。
  • 聖書は死を自然現象とは考えない。「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)。死は罪の結果というのが聖書の考え方である。罪は神の裁きを招く。人が死を恐れるのは、無意識のうちに神の裁きを恐れていると僕は考える。
  • ここで死は最後の敵とされる。まず、なぜ死は敵なのか。死は私たちに恐れを与える。恐れを与えるものは決して味方ではない。むしろ敵と考えるほうが自然である。そして私たちは死に勝つことができない。必ず死ぬ。しかしその死が滅ぼされたという。どういうことか。

テモテ二 1:10
キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。

ヘブル 2:14~15
ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。

  • 人は死ななければならない。つまり人は死の支配の中に置かれている。しかしイエスは復活し、死の支配を打ち砕き、死の恐怖の奴隷状態から私たちを解放した。もはや死は私たちを支配しない。死は私たちにとって脅威ではなくなった。テモテ二は、キリストは死を滅ぼしたと語るが、それは私たちを恐れさせる死の脅威はなくなったとの意味だと考える。そしてヘブル書も、キリストのおかげで死の恐怖から解放され、死は私たちにとって脅威ではなくなったと語る。私たちは死を避けることはできない。いずれ死ぬ。でも死は恐れの対象ではなくなった。死は脅威ではなくなった、それが死は滅びたとの意味と考える。
  • 死は最後の敵として滅ぼされる。最後の敵とはどういうことか。終わりの時まで歴史が続き、人間の営みがなされ、人間が生きている。そして人間が生きている限り、死は人間に恐れを与え続ける。だから死は最後の敵と言われるのか。人間に最後まで恐れを与えるのは死である。それが「最後の敵」という意味だと考える。
  • パウロは、「死ぬことは利益なのです」と思いがけないことを書く(フィリピ1:21)。「この世を去ってキリストと共にいたい」フィリピ1:23)と熱望している。死んでキリストと共にいることが実現するから死を利益と考えている。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>キリストは最後の敵としての死を滅ぼす方である。
☆神が私たちに求める生き方
  • <教え>キリストの復活により死はもはや脅威ではなくなった。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、イエス・キリストの復活は私たちに死を越える希望を与えてくれます。死はもはや脅威ではなくなりました。感謝します。とはいえ実際に自分の死の時を迎える時がきます。その時を平安に迎えることができたらと考えます。そのためには、おわりの日に何が起きるのか、聖書が教えていることを受けとめ、それを希望とすることが大切だと考えます。キリストはすべてのものを御自分の足の下に従えるとあります。これはどんな光景となるのでしょうか。キリストがすべてのものの主となる場面を見ることができたらと願います。
  • 死を越える希望を漠然と抱くのではなく、聖書が描くおわりの日の光景を心におさめ、期待をもって死を越える希望に立つことができるように導いてください。
  • 今日は思いめぐらしたことをブログに書くことを適用としたいと思います。
☆与えられた導き
  • 聖書黙想をブログに書く