第一コリント 15章35~49節 キリストの似姿
2021年5月7日
(内容)
- パウロは、どんな体で復活するのかという問いに答える。復活は生き返ることではない。新しい霊的な存在になることである。
(黙想)
- 35節。死者はどんな体で復活するのかと問う人がいる。
- 36節。パウロはそのように問う人を「愚かな人」だという。あなたの蒔くものは死ななければ命を得ないという。これは当時の人々に常識のことを前提としていると思われる。その常識を知らない人のことをパウロは「愚かな人」という。その常識は種のことである。種を蒔くと種は土の中で死んだと理解される。しかしそこから芽が出て、実を結ぶに至る。ここには死の前後が語られる。死ぬ前は種、死んだ後は実を結ぶ植物。自然界に復活の事例を見る。
- 37~38節。植物を例に挙げ、神は種にそれぞれの体を与える。種は土のなかで死に、植物は種類に応じて、それぞれの「体」を持つ。種は、それぞれの種類に「体」に生まれ変わる。
- 39節。動物を取り上げ、肉の種類を語る。人間、獣、鳥、魚など動物はそれぞれの「肉」を持っている。パウロは動物には「体」と言わずに「肉」という。植物の場合は種が死んで種類に応じた体と持つものとなる。動物の場合には、種に相当するものについての言及はないが、動物の「肉」もまた生まれ変わった姿という理解なのだと考える。
- 40節。天上の体と地上の体の対比が書かれている。それに応じて、天上の体の輝きと地上の体の輝きは違うという。ここには天と地の対比がある。具体的にはどういうことか。目に見えるものと目に見えない霊的なものとの対比がなされているのか。それとも地上にあるものと、地上からずっと上にあるものを意味しているのか。空間の位置の違いが対比されているのか。
- もし復活との関連で言うなら、目に見えるものとそうでないものとの対比よい。目に見えるのは、我々のこの体(地上の体)。この体はいずれ死ぬ。しかし死んだ後、霊的なもの(天上の体)になるという理解。空間的な位置の違いは、復活との関連がよく分からない。
- 41節。太陽、月、星、それぞれの輝きは違うという。これらは「天上の体」の輝きなのか、それとも「地上の体」の輝きなのか。わかりにくい。
- 42~43節。パウロは人間について言及する。人間は復活する。朽ちるものでまかれ、朽ちないものに復活するという。人間はこの世に生まれる。これは朽ちるものであり、死ぬ。しかし朽ちないものに復活するという。そして復活前後の対比がなされる。「朽ちるもの、卑しいもの、弱いもの」が「朽ちないもの、輝かしいもの、力強いもの」に復活すると語る。
- 44節。自然の命の体が、霊の体に復活するという。
- 45~46節。アダムとキリストの対比がなされる。ロマ書の5章で人はアダムに属していたが、信仰によりキリストに属するものとなることが語られている。アダムは自然の体を指し、キリストは霊の体を指す。最初から霊の体ががったのではなく、自然の命の体が霊の体になるという順序がある。
- 47~48節。アダムは地に属し、キリストは天に属する。そしてキリストを信じる者は、最初はアダムに属し、信仰を得て、天に属する者となる。復活があることを語る。
- 49節。信仰者がキリストに属する者、天に属する者になるだけではなく、天に属するキリストの似姿にもなると語る。これは大切な主張である。
- パウロは人間は死んでも復活すると語る。人はキリストに似た者に復活する。このことは何を語っているのかが大切である。端的に言えば、キリスト者は、地上の歩みにおいてキリストに似た者となることを目指すべきであることを教えている。種はそれぞれの種類にふさわしい体をとり、そして実を結ぶ。キリスト者はその人にふさわしく、キリストに似た者となることを目指す、それが復活を信じるということである。
- パウロは人は死んだら、彼岸の世界に行くと単純には教えない。パウロはキリスト者は復活してキリストに似た者となることを教える。ヨハネもまた教えている。
コリント二 3:18
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。フィリピ 3:21
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。ヨハネ一 3:2~3
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。
- 我々が神の国に迎えられる時、復活し、キリストに似た者とされることをパウロは教えているが、パウロはどのようにして、このように考えるようになったのかを思う。人間の思索を越えたことである。神さまに教えられたということなのだろう。
- それゆえ、僕はキリストに似た者となることを目指す。キリストに似た者となることを目指さない限り、キリストを信じる信仰の持つ力は発揮されないのではないか。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>命を与える霊である。天に属する方。
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>私たちは将来、キリストの似姿に復活する。その時に違和感がないように、そしてその復活を心から喜ぶことができるように、今、キリストの似姿を目指す歩みをする。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書から教えられ感謝します。キリストの似姿になることを目指すことは畏れ多いことです。自分はキリストに似た者となることを目指しているなんて、簡単には人に言えません。しかしパウロは「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」と語ります(コリント一11:1)。
- パウロにとってキリスト者として生きるとは、キリストに結ばれ、キリストに倣う者として生きることであることを教えられます。復活した時は、真にキリストに似た者に変えられることを彼は期待し、喜びとしています。私もキリストに倣う者、パウロに倣う者でありたいと思います。
- 私はすでに老人となりました。老いの時期をどのように生きるのか、キリストに似た者としてどのように生きるのか、日々の課題です。そのためにこうして聖書を読んでもいます。天の父よ、私がどのように生きることがあなたの御心なのでしょうか。具体的にどのようにキリストに似た者として歩んだらいいのでしょうか。
- 今日はこのことを課題にしてあなたに祈ります。
☆与えられた導き
- 祈る
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天の父なる神さま、
ディボーションを通して、キリストの似姿となることを目指して生きることを示されました。老いの中にある者として、どのように生きるのか、今日は祈ることにしました。
キリストの似姿となることを目指すという時、自分はキリストについて何を知っているのかと思いました。自分が知っているキリストの似姿を目指すことになりますから、自分がキリストをどのように知っているのか、それは偏りがないか、聖書が伝えるキリストをそのまま受けとめているのか、考えさせられます。
私はこれまでもキリストの似姿になることを目指してきました。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」(コロサイ3:12)とあるのを読み、人格的にキリストに似た者を目指すべく、これらのものを身につける努力をしています。イエス様は一人の人間として歩まれたことは確かです。イエス様は、生活をされました。神さまに仕える者として歩まれました。「働き」という観点から、イエス様に倣うことを考えてもよいかもしれません。
今「キリストに倣いて」との題の本があることを思い出しました。トマス・ア・ケンピスが書いた本です。イミタチオ・クリスティ。昔読んだことがありますが、今この時、もう一度読み、学んでみたいと思いました。
ありがとうございました。イエス・キリストの御名により祈ります。