マタイ福音書 6章25~34節 神の国と神の義を

2020年1月12日

(内容)

  • 明日のことまで思い煩うな。その日の苦労はその日だけで十分である。神の国と神の義を求めよ。

(黙想)

1.25節

  • 最初に、命のこと、体のことで思い悩むなと教えられる。何を思い悩むのか。食べ物のことでは何を食べようかと思い悩むな。食べるものは色々あるが、今日は何を食べようかと選択で思い悩むのか。それとも今日食べることもままならない状況で何を食べようかと悩むのか。どうしたら食べ物を手に入れることができるのかと思い悩むことなのか。これは切羽詰まった悩みである。着る物で悩むとは、今日はどの衣服を身につけようかと選択で思い悩むのか。着る物が十分なく、どうしたら着るものを得ることができるのかという思い悩みなのか。これも切羽詰まった思い悩みである。
  • もし全く食べ物がなく飢えに瀕しているような状態の人に向かって「食べ物のことで思い悩むな」とイエスさまは教えないだろう。着る物がない人に「着るもののことで思い悩むな」とイエスさまは教えないだろう。困窮している人に対しては施しを勧めるだろう。
  • イエスさまの時代、多くの人が、食べ物の選択で思い悩むことは想定しにくい。だれしも十分な食べ物がないギリギリの生活をしていたのではないか。そうであれば、明日は大丈夫か、と不安になり思い悩む。現代でも老後に備えてどれほど貯蓄をしておくべきか、が話題になる。明日への備えがないことが不安になる。明日の備えがあれば、今日安心して生きることができる。
  • 命は食べ物より大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。これは思い悩まない理由を意味している。これはどういう意味か。思い悩むなら食べ物より、命のことで思い悩めということか。自分の命が今あることをどう受けとめたらいいのか考えよ、ということか。つまり、命は神から与えられているのであり、命は神の支えの中にあることを覚えよというのか。人は自分が生きていることを自明のこととする。命は自分のものであり、それゆえ自分で命を保つ努力をしなければいけないと考える。そして明日を思い煩う。しかし食べ物より大切な命は、神の御手の中にあり、神のお支えの中にあるなら、思い悩む必要はないとイエスさまは教えているのか。

2.26節

  • 空の鳥をよく見なさい。種をまかず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。命を支えるための食べ物を自分の手に確保することはしていない。それなのに鳥が生きているのは、天の父が養ってくださるからだという。そして人は鳥よりも価値あるものである。人もまた天の父に養われる存在ではないかとイエスさまは言う。しかし鳥といえども食物を求めて忙しく空を飛んでいる。何もしないで生きているわけではない。餌を求めて活動している。そして必要を満たされている。そのことが天の父に養われているという。別な見方をすれば、鳥だって自分の力で頑張って生きているといえる。しかしそこに天の父の養いを信仰は見る。今日の支えを信じるから、明日の支えを信じることができる。

3.27節

  • 人は思い悩んでも寿命を延ばすことはできない。人は自分の命をどうすることもできない。命は神の御手のうちにあり、人間が何かすることはできない。天の父を認め、天の父に信頼して生きることが大切。信頼することにより思い悩まなくてすむ。心は平安となる。

4.28~30節

  • 衣服のことで思い悩むなとある。ここでは衣服によっ着飾りたいという願望に対してイエスさまは語っている。だれしもよいもので着飾り、自分をよく見せたいと願う心があるし、よいもので着飾り満足を得たいとも思う。自分の外見を気にしていることになる。
  • イエスさまは野の花と栄華を極めたソロモンを比較し、ソロモンは野の花ほどに着飾っていなかったと語る。ソロモンは豪華な衣装を身につけていたにちがいない。野の花はどちらかと言えば、質素であり、清楚である。必ずしも見栄えするとは限らない。道端に咲いている野の花に視線を向ける人は少ない。しかしソロモンのように着飾っていれば、だれもが感嘆の声を上げるのではないか。
  • しかしイエスさまは野の花の方が着飾っているという。これはどういう判断か。人はソロモンのように豪華に着飾ることに憧れる。高価なブランド品に憧れる人は少なくない。豪華な衣装のソロモンより、野の花の方が美しいとイエスは言われたのだろうか。野の花は神に造られ、神が願うとおりに花を咲かせている。自然の美しさを備えている。人間は内面が大切である。着飾る、それは外面をきれいにするだけで、内面を映し出していない。人は神に似せて造られており、神に似た歩みをしてこそ美しい。野の花の方がよほど神の御心にかなった姿を示している。

5.30節

  • 信仰の薄い者たちよ、とイエスさまは言う。思い悩む者は信仰が薄いという。信仰とは何か。神に信頼すること。自分が神に造られたものであり、神は造られた者を見放したり、見捨てたりしない。人はいつも神の御支配の中に生きている。このことを信じれば思い煩うことはない。神を信じるなら、深く信じるとよい。

6.31~32節

  • 食べ物も着る物で心を用いるのは異邦人であり、彼らは思い悩む。しかし生活上で必要なものは神が備えて下さると信仰者は信じる。主の祈りでも「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈る。この祈りを祈り、神に信頼する、それが信仰である。

7.33節

  • そこで何よりも神の国と神の義を求めなさいと教えられる。神の国とは、神の御支配を意味する。神の御支配の中を生きること、それが神の国を求めることである。神の御支配の中に生きるので明日のことを思い煩う必要はない。異邦人は自分の力で生きていると考える。だから明日のことが不安になり思い煩う。
  • 神の義を求める、これはどういうことか。福音書では「神の義」という言葉は、ここだけにしか現れない。そしてパウロは「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」(ローマ1:18)。
  • イエスさまは、神の前で自分は正しい者であると主張するファリサイ派や律法学者を偽善者と批判した。イエスさまは、生活することだけで一生懸命な民に近づかれた。彼らの中で病人あるいは病人を抱える者はイエスさまのもとに来ていやしを求めた。イエスさまは漁師に声をかけ、取税人にも声をかけた。既成のユダヤ教ではなく、心から素直に神に信頼し、神に従う神との交わりの信仰をイエスさまは伝えようとした。そのイエスさまが「神の義を求めよ」という時、これは何を意味しているのか。
  • イエスさまは「悔い改めよ、天の国は近づいた」を宣教を始められた。天の国は神の国と同じと考えてよい。イエスさまは人々が悔い改めて神に立ち帰ることを求めている。イエスさまを通して神の国に生きるように神は招かれた。この招きに応えて生きることが神の義を求めることではないか。このような者こそ、神の目に正しく(義しく)生きる者である。イエスさまは神を信頼して生きるように勧めている。自分が神に造られた者として、神の御心に生きることをイエスさまは教えている。その流れで言えば、このように生きる人こそ、神は正しい者として下さるということであり、律法を文字通り守ってそれを誇ることが神の前に正しい者とされるわけではない。イエスさまは神のご支配に信頼して生きることを求めておられ、このように生きる者こそ、神の前に正しい者であることを教えているのか。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>私たちを養ってくださる天の父である。
☆神が私たちに求める生き方
  • <警告>思い悩むな。神に信頼し、思い悩むな。
  • <勧め>神の国と神の義を求めよ。神に信頼して生きること。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝です。ていねいに思いめぐらし、聖書の理解を深めることができて感謝します。「神の義を求める」ことの意味が何であるのか、思いめぐらしましたが、納得のいく解釈を知りたいと思いました。この箇所を思いめぐらすことは二度とないかもしれません。それで今日はロイドジョンズの山上の説教の説教を読みたいと思いました。神の義について教えてください。
☆与えられ得た導き

・ロイドジョンズの説教を読む

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  • ロイドジョンズの山上の説教を読んだ。彼の黙想は深い。
  • キリスト者は異邦人とは求めるものが違う。生活に関わるものは、神が必要を満たしてくださるので思いわずらう必要はない。キリスト者は神の国と神の義を求める。
  • 神の国とは神の御支配であり、神の御支配に信頼してゆだね、思い煩わないで生きること。
  • 神の義を求めるとは、神の子としてふさわしく、神のみ心に従い、聖い生活を送ること。神の目に正しいと思うことを行い生きていくこと。