ローマ 6章15~23節 神の奴隷

2023年10月3日

(内容)

  • 私たちは律法の下にはいない。それは罪を犯してよいということではない。むしろ聖なる生活の実を結ぶべく、聖なる生活を送りなさい。

(黙想)

  • この箇所には奴隷という言葉が繰り返し出てくる。罪に仕える奴隷、神に従順に仕える奴隷、不法の奴隷、義の奴隷、神の奴隷。
  • 人は奴隷状態より自由を好むので、自分が奴隷であると言われると反発を感じる。信仰をもつと神の奴隷になると言われて信仰者になりたいと人は考えるだろうか。奴隷という言葉には否定的なイメージが伴う。
  • 罪に仕える奴隷、不法の奴隷には、誰もなりたいとは思わない。これから解放され、自由になることを願う。しかし神の奴隷、義の奴隷と言われると、面白くない。楽しくない。奴隷という言葉の響きは強い。この強さに惑わされてはならないだろう。神に仕える神の奴隷。義に仕える義の奴隷、これが信仰者なのだから。
  • 信仰者は義とされた者として生きる。神に対して従順に生きる。奴隷という言葉は、徹底することを意味しているのではないか。神に徹底して従順に生きる、義とされた者として徹底的に義に生きる。パウロは、人間の生き方を対照的に表現している。罪の奴隷か神の奴隷か。
  • 人間は自由を求める。自分の思い通りに生きる自由。自分の思い通りになる人生を求める。キリスト者になっても、神の戒めを自分を束縛するものとして受けとめることがある。だから神の戒めを守らなければならないと語ることがある。本心は守りたくないのである。このような人間の姿は罪の奴隷の姿である。自分を第一にすることの奴隷。自己中心の奴隷。聖書は、真の自由は神を愛し、人を愛することにあると教える。
  • このように愛に生きることを聖なる生活を求める(19節)と言ってよい。
  • 使徒パウロは、ロマ書の出だしで、自分のことをイエス・キリストの僕(しもべ)と言う。その僕という言葉は、ギリシャ語の「奴隷」という言葉が使われている。その奴隷という言葉をこの段落で使っている。だから一貫した訳にするなら、イエス・キリストの奴隷と訳すべきである。
  • 人間は、神ではないので、思い通りに生きようとしても、思い通りになるとは限らない。自分中心に生きても、よい結果が生まれるとは限らない。むしろ悪い結果を生むことが多い。なぜか。それは罪の歩みだから。
  • 真の幸いは神に従順に生きること、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛することにあると聖書は語る。そして僕はそれを認め、信じる。
  • 奴隷という言葉に不快、嫌悪感を持つなら、それは自分中心の思いが残っているからだ。これは生きている限り、決してなくならない。私たちがこの体を持つ限りなくならない。しかし恵みの下にいるので、克服できる。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • <教え>神の奴隷、義の奴隷であることを認める。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝です。今日の聖書箇所で、私たちは罪に仕える奴隷か、神に仕える奴隷か、とあります。いずれにせよ自分は奴隷であることになります。奴隷という言葉に引っかかりを覚えていましたが、自分を第一とする自分の奴隷となるのか、神を第一とする神の奴隷となるのかと考える時、神に従う者でありたいと考えます。
  • 奴隷という言葉は強烈ですが、自分はどこに向いて生きるのかを指し示すよい言葉と理解します。パウロは自分をイエス・キリストの僕、イエス・キリストの奴隷とロマ書の冒頭に書きます。自分のアイデンティティーとしてキリストの奴隷、神の奴隷であることを受け入れたいと思いました。
  • 今日は、神さまの前に、自分を奴隷と呼ぶことの拒否感を捨てることを告白したいと思います。神の奴隷、キリストの奴隷というアイデンティティーを受け入れることができるように導いてください。同時に神は私の天の父であり、キリストは私の羊飼いであることも覚えさせてください。私たちのアイデンティティーは豊かであることを覚えさせてください。
☆与えられた導き
  • 新しい自分のアイデンティティを受け入れることを告白する。