マタイ福音書5章6節 義に飢え渇く

2023年6月27日

(内容)

  • 義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる。

(黙想)

  • 満たされるは、未来形の動詞。
  • 「義に飢え渇く」とある。義とは何か。二通りに解釈できる。
  • 一つは、自分が神の前に義なる者となること。人間は罪を犯しながら生きている。だから神の前に義なる者となることに飢え渇く。人は義なる者となり、神との交わりに生きる。これが神に造られた人間の本来の生き方、神との間に平和がある。この義の渇きは、キリストの贖いの死によって、満たされるようになった。キリストを信じる者は信仰によって義とされる。
  • でもこれは信仰における事実、霊的な事実であり、現在自分は義とされていると信じてキリスト者は歩む。キリスト者は義とされていると信じ、満たされている。同時に、終末の時に、義は現実となり、完全に満たされる。
  • 二番目の解釈は、神は義なる方であり、神の義が世を支配することに飢え渇くとの意味。キリスト者は御心の天に行われるように地において御心が行われることを願う。御心が地において行われることに飢え渇く。
  • 人間の生きているこの世界の現実は、問題ある世界で、混乱と争いがある。正義が全うされているとは決して言えない。不正のために苦しんでいる人が多い。正義が行われる社会に飢え渇くことが意味されている。
  • これは現実にはなかなか実現しない。神の国が到来するまで、この世の現実は変わらずに続く。御心が地になるようにとの祈りは、御国が到来する時まで続く。
  • イエスはどのような意味を込めたのか。正義が行われていない社会の変革をイエスが第一に考えているようには思えない。
  • 山上の説教で忘れてはならない言葉がある。「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい」(6:33)とのイエスの言葉である。この言葉は、「思い悩むな」とイエスが語る文脈の中に結論的な言葉として出てくる。
  • 天の父は、あなたがたに必要なものは、すべてご存じであるから、何を食べようか、何を着ようか、思い悩むなとイエスは語る。そこで「神の国と神の義を求めよ」。これは明日のことを思い煩うなとつながる。
  • 神の国を求めるとは、神の御支配を求めることである。神の御支配の中に生きるのなら、思い悩むことはない。神の御支配の中にあることを信じるなら、自分がどのような状態になっても、思い悩む必要はない。神が助けてくださり、必要なものは与えてくださる。
  • そこで神の義を求めよとある。自分は神のご支配の中に生きることを求めよとの意味につながる。無条件で人は神のご支配の中に生きることができるわけではない。
  • ロマ書3章では、神の義とは、神がキリストを信じる者に与えてくださる義であり、キリスト者は神の前に義なる者とされる。自分が神の前に義なる者であると信じるなら、罪を犯す者への神の裁きを心配する必要はない。神の御支配は自分の身の上に確かにあることを信じることができる。
  • 義に飢え渇くとは、神に義とされることと理解できる。神の前に義とされることを人は求めているのか。キリスト者はどうか。罪の赦しは感謝をもって受け取るが、義を求めているかどうか。
  • 義とされることは、義とされた者にふさわしい者になることが期待される。この努力は、義に飢え渇く者がする努力となる。
  • またイエスは次のように教えている。

5:20
言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。

  • ファリサイ派の人々は、律法を守り、自分は神の前に義なる者と認められることを期待し、またこれを求める。弟子たちの義がファリサイ派にまさるとは、何を意味するのか。律法の実践において、ファリサイ派の人にまさり、より大きな義を自分のために獲得することか。
  • イエスは、律法を行って自分の義を立てることとは別の義を語っているのではないか。神から与えられる義を切に求めることを語っている。
  • 神から与えられる義は、律法を守って立てる義にまさっている。
  • 神の義を与えられたと信じて、そこから義なる者にふさわしい歩みをするのがイエスの弟子。ファリサイ派は自分の努力で己の義を立てる。それに対して、キリスト者は義とされたと信じて、感謝して、それへの応答として義なる者を目指す。聖なる者を目指す。両者の目指す義は全く違う。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>義に飢え渇くこと。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神、色々思いめぐらし、義に飢え渇くとは、自分があなたの前に義なる者になることへの飢え渇きと受けとめました。でもそれは、自分の力で律法を守って獲得するものではありません。律法の実践において落ち度のないものと語ったパウロは、自分の義をゴミに等しいと語りました。
  • あなたがキリストを信じる者に与えてくださる義、そして自分が義とされたことを信じて、義なる者として歩んでいくこと。そのことを切に願う人は幸いであると主イエスは教えられたのではないかと受けとめます。
  • 天の父なる神、あなたによって義とされたことは、言い換えるとあなたとの交わりに生きることが許されるということであり、あなたとの交わりに生きる者とされます。あなたとの交わりに生きるからこそ、あなたの御心に従います。そして義とされた者にふさわしいキリスト者になっていきます。罪に打ち勝って生きることとなります。信仰によって義とされたことを深く受けとめることの大切さを思います。
  • 秋に伝道礼拝の説教の依頼を受けています。未信者に向けて福音を発信します。今日の聖書は、キリスト者とはどんな人かを物語る大切な箇所と受けとめました。伝道礼拝の時の説教につながるような気がしました。伝道礼拝で何を語るのか思案し、また黙想していますが、今日の箇所を参考とします。
  • 今日は、伝道礼拝で何を語るのか、あなたの導きを祈り求めることとします。
☆与えられた導き
  • 伝道礼拝の説教への導きを祈る。