ローマ 2章6~16節 神の裁きと滅び

2022年7月25日

(内容)

  • 神は人間の行いによって、人を裁く方である。人間の隠れた事柄は裁きの日に明らかになる。

(黙想)

  • パウロは神の裁きを語るが、それは神の救いを前提にしている。人々を救いに導くために神の裁きを語っている。
  • 6節で神は各々の行為に従って裁くとされる。
  • 7~8節。裁きの内容は二種類であり、忍耐強く善を行って栄光と誉れと不滅の者を求める者には永遠の命が与えられ、反抗心にかられ真理ではなく、不義に従う者には怒りと憤りを示されるとある。人は永遠の命を得るか、神の怒りと憤りを受けるか、どちらかである。
  • 9~10節。この神の裁きにおいて、ユダヤ人であるかギリシャ人であるかは関係ない。ユダヤ人は神の民として律法を与えられており、ギリシャ人は律法を知らない。ユダヤ人の中には律法を持っていることを誇り、律法を知らず、罪を犯しているギリシャ人を軽蔑する者たちもいた。しかしここでは、人の行いに注目する。
  • すべて悪を行う者には、苦しみと悩みが下り、善を行う者には、栄光と誉れと平和が与えられる。
  • 11節。神は人を分け隔てしないと語る。
  • 12節以降では、ユダヤ人とギリシャ人について更に語られる。ユダヤ人については、彼らは律法を与えられている。律法を実行する者が義とされるのであり、律法を聞くだけでは義とされず、律法を破る者は滅びる。ギリシャ人も罪を犯せば滅びるとされる。ギリシャ人には良心が与えられていて、善と悪の区別ができるようにされている。この良心は、ギリシャ人の心に律法の要求する事柄が刻まれていることを示している。
  • 16節。神がイエス・キリストを通して裁かれる日が来る。その時、人々は神の前に出て、その行いが明らかになる。
  • 現代人にとってここに書かれている神の裁きは、愚かな話しに見えるだろう。終末の裁きなど、信じられないだろう。まして罪を犯した者は滅びるなんて、信じる気になれないだろう。多くの人は善人として生きているという自負があるにちがいない。しかし神の目からみれば罪を犯している。
  • 自分が信じられるから信じる、信じられないから信じないという態度は気をつけなければならない。自分は神ではないので、自分の判断が絶対に正しいとは言えないからである。自分が信じられない話しを聞く時は注意しなければならない。だまされる可能性があるから。
  • 聖書が語ることは、信じたいと思うし、信じる。
  • 7節で忍耐強く善を行う者は永遠の命を得るとあるが、そのようにして永遠の命を得ることのできる者がいるのか。この段階では、そのことはパウロは明らかにしない。パウロは論理的に話を進める。善を行う者は永遠の命を与えられ、悪を行う者には神の怒り、憤りが向けられる。そしてユダヤ人、ギリシャ人の区別もない。まずは一般論を語る。パウロが書くことに異論を抱く人は少ないだろう。
  • パウロは3章になって、善を行って永遠の命を得ることができる人はおらず、人は皆罪を犯していると告げる。
  • 13節で律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行するものが、義とされると書く。これも納得できる事柄である。我々を正しい者とするのは神である。
  • 心に刺さるのは、「滅び」という言葉である。罪を犯し続ける者は滅びるとある。今教会では、神を信じない者、罪を犯す者が最後の裁きの結果、滅びることはあまり語られない。パウロはロマ書で福音を語る出発点として、人間の不信心と不義に対して神の怒りが現れるとまず語る。人は滅びから救われるのである。
  • 滅びを説く目的は何か。一つは信仰に招くことがある。二つ目は、キリスト者として生きることがどういうことであるかを語ることにつながる。キリスト者は滅びに向かう生き方はしない。滅びはいかに生きるべきかを示すことになるのではないか。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>神は各々の行いに従って裁かれる方である。
  • <御父>神は人々の隠れた行いを明るみに出す方。
☆神が私たちに求める生き方
  • <教え>この段落は人は二つの生き方を選ぶことができ、どちらを選ぶかで、それぞれの結果を得ると書いている。永遠の命か滅びか、生き方によって決まると語る。でも3章で語るように、人は皆罪を犯しており、永遠の命を得ることはできない。
  • <教え>神が人をそれぞれの行いによって裁く方であると知ること。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神、神の裁き、滅びということは積極的に語られることはありませんし、むしろ避ける傾向があるようにも思います。しかしパウロは福音を語るために、神の怒り、神の裁きから話しを始めています。
  • でも滅びだけを語るなら、福音はありません。救いがあるから滅びを語ることができます。パウロは順序として滅びを語ります。滅ぶ人は、滅びに向かって生きていることを思います。日々の生活が滅びを含んでいることを思います。だから悔い改めて生き方を改めることが大切となりますね。滅びを語る、それは悔い改めへの招きですね。
  • 私は滅びを信じます。滅びがどういうものかは分かりません。ただ滅びとは死んだ後、救いのない状態におかれることと理解します。その時、後悔しても取り返しがつかない状態と理解します。
  • 死んだら人は無になる、死んだ後は何もないと語る人がいます。平気でそういう言葉を語ることができるのを不思議に思います。まさにそれは滅びではないかと思います。自分の存在がなくなる、自分が世界から完全に見捨てられる、それは滅びだと思います。私は永遠の命、神と共にある生を与えられることを願います。
  • この滅びをどうしたら語りやすくなるのか、語ることができるのか、課題です。根本的な救いは、滅びからの救いですから。ブログで「滅び」について書いてみたいと思います。
☆与えられた導き
  • ブログに神の怒りと滅びについて書いてみる。