マタイ福音書 27章45~56節 イエスの叫び

2021年4月5日

(内容)

  • イエスは大きな叫び声をあげ息を引き取った。地では不思議な出来事が起きた。百人隊長は、それらを見て「この人は神の子だった」と告白をした。

(黙想)

  • ついにイエスは亡くなった。イエスが十字架につけられたのはマルコ福音書によれば朝の9時であった。12時に全地が暗くなったとある。そして15時頃、イエスは大きな声で叫び亡くなった。十字架の上で6時間ほど肉体的な苦痛と共に苦悩を味わった。それは罪に対する神の裁き、罰を味わったからである。それが具体的にどのようなものであったのかは分からない。死の直前イエスは叫んだ「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。
  • 旧約聖書を読むと、「見捨てない」「見捨てる」は、神との関係で大切な言葉であることが分かる。創世記で28章で、家出をしたヤコブに対して神は次のように語った。

創 28:15
見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。

  • モーセの亡き後、イスラエルの民の指導者となったヨシュアに対しても神は語った。

ヨシュア記 1:5
一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。

しかし神を見捨てる民を神は見捨てる。

エレミヤ 6:8
エルサレムよ、懲らしめを受け入れよ。さもないと、わたしはお前を見捨て/荒れ果てて人の住まない地とする。

  • それゆえ、「見捨てないで下さい」との切なる祈りも生まれる。

エレミヤ 14:9
なぜあなたは、とまどい/人を救いえない勇士のようになっておられるのか。主よ、あなたは我々の中におられます。我々は御名によって呼ばれています。我々を見捨てないでください。

エレミヤ 14:21
我々を見捨てないでください。あなたの栄光の座を軽んじないでください。御名にふさわしく、我々と結んだ契約を心に留め/それを破らないでください。

  • しかし神がイスラエルの民を見捨てるのは冷酷な神としてではない。

ホセア 11:8
ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。

  • 神は愛の神であるゆえにイスラエルの民を見捨てることはできない。しかし神は正しい神でもあるゆえに罪を犯す者を罰しないでおくわけにも行かない。民を見捨てず、なお民の罪を罰するという神の知恵、それは御子の十字架の死であった。御子を罰することによって神の正しさは実行された。そして御子を信じる者を赦すという神の愛も実行された。
  • イエスは十字架の上で人々の罪を負い、人々の代わりに神の罰を受け、神に見捨てられて死んだ。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになるのですか」と叫んで亡くなった。神に見捨てられる理由が何もない人が見捨てられたのである。それは何のためだったのか。
  • そもそも神に見捨てられるとはどういうことなのか。実は我々はそれが何か知っている。とても恐ろしいのである。死の恐怖に恐れおののいたことのある人は、神に見捨てられる恐怖を味わっていたのである。神を知らない人はこの恐れおののきが何に由来するのかを知らない。聖書は神に見捨てられることの恐れだと答える。この神に見捨てられる恐怖をイエスは十字架の上で味わわれたのである。もっと現実的にリアルに味わわれたのである。
  • 「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになるのですか」。これは詩編22篇の引用でもある。「なぜ」という言葉には抗議の意味合いを感じる。イエスは罪の償いのために自分を献げることが神の御心だと受けとめていた。神のみ心に従うべく十字架への道を歩んだ。しかし実際、十字架につけられ、罪に対する罰を味わう中で、神に見捨てられるという絶望を味わった。それはイエスの予想を超えていたのではないか。神に見捨てられるという絶望を味わい、あの叫び声が出たと推測する。
  • そしてイエスは我々の罪に対する裁きを十字架の上で引き受けられた。イエスの絶望の叫びは我々のためであったと聖書は語る。私が受けるべき罰をイエスは私の代わりに味わわれたのである。
  • 罪とは、あれこれの悪い行い以上のものである。神を見捨てることであり、神なしに生きようとすることである。旧約聖書によれば、神を信じるイスラエルの民が、日々の生活の中で神を見捨てるのである。彼らは偶像礼拝をするのである。だから神は人々に神に立ち帰るように預言者を通して訴える。しかし民が立ち帰らない時、神は「見捨てる」と警告をした。結果的には、神はイスラエルを見捨てイスラエルの国家は滅亡した。しかしイスラエルの民は完全に見捨てられたわけではなかった。神はイスラエルの救い主を送ったのだから。
  • 神は何でイエスを救い主、メシアとしてイスラエルの送ったのか。それは第一に彼らを神の民として再生するためである。そして第二にイエスがすべての民の救い主となるためである。この再生について言えば、罪に打ち勝って生きる救いの恵みを神は信じる者のために用意している。イスラエルの民の不信仰を繰り返さないように、救いの恵みを神は用意された。
  • 神が御子を送り、罪のいけにえとし、人間の罪に対する怒りを御子にぶつけたのは、ただ人間の罪を赦すためだけではない。むしろ人間をして、神をたたえて生きるように導くためである。人は罪の支配の中にあり、この支配から自分を解放してくれる神に感謝し、神をたたえて生きるように導かれる。それが神の目的である。神はイスラエルの民だけではなく、すべての人間を救いに導こうとされた。
  • 神を知る者は自分の罪を知り、罪からの解放を願い、イエス・キリストを救い主と仰ぐ。罪からの解放、再生を願う者が真のキリスト者である。われらの再生のために、イエスは十字架の上で罪に対する神の裁き、罰を受けられ、神に見捨てられるという途方もない罰を受けられた。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>イエスは、十字架の上で神に見捨てられるという絶望を味わった。この絶望は罪に対する罰であった。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、主の叫びについて思いめぐらすことができて感謝です。キリストの十字架は何だったのでしょうか。それは私たちの救いでした。長年牧師として働き、今隠退して思うことは、私たちは十字架の意味を本当に知っているのだろうかという思いです。キリストの十字架の意義は、これこれですと答えることはできますが、上辺の理解に留まっているような気がします。
  • キリスト者はどのように生きているのでしょうか。罪から自由にされて生きているキリスト者がどれほどいるのかと思います。礼拝の中で罪の赦しは語られ信じられていますが、罪からの解放については、あまり語られていないように思います。罪から解放された喜びをキリスト者が語るのを聞いたことがほとんどありません。
  • キリストの十字架は説教はされていますが、十字架の恵みの探求は不十分であると思います。今私は『The Cross』を読んでいます。ロイドジョンズ牧師の本です。十字架が何であったのかを深く追求しています。イエス・キリストを宣べ伝える者として私は歩み、説教をしてきましたが、不十分な理解しか持てなかったことを残念に思います。でも今、この本と出会えてよかったです。キリストの十字架の意義について深く学ぶことができるからです。
  • きちんとこの本から学び、キリストの十字架が何であったのか、深く理解したいと思いました。そうでなければ、イエスに申し訳ないように思います。続けて読んでいきます。そして許されるなら、キリストの十字架を語りたいと思います。導いてください。
☆与えられた導き
  • 『The Cross』を最期まで読む