マタイ福音書 27章27~31節 みじめな主のお姿

2021年4月1日

(内容)

  • ローマ総督の兵士たちはイエス様を総督官邸内に連れて行き、イエスを侮辱し、それから十字架につけるために刑場に引いていった。

(黙想)

  • 兵士たちはイエスが着ていたものを剥ぎ取り、赤い外套を着せた。イエスに王の装いをさせたのである。さらに王冠ではなく茨で作った冠を頭にのせ、王笏の代わりに葦の棒を右手に持たせた。王冠の冠の代わりに茨で作った冠、王笏の代わりに葦の棒。そして赤い外套。完全に人を馬鹿にした装いをさせた。そしてイエスの前にひざまづき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って侮辱した。また唾を吐きかけ、葦の棒で頭をたたき続けた。兵士たちの姿は、人間の卑劣な姿を現している。このような侮辱をイエスは黙って受け続けた。
  • イエスをいたぶった後、兵士たちは赤い外套を脱がせ、イエスがもともと着ていた服を着せた。そしてイエスを刑場へ連れて行く。
  • イエスは無力であり、侮辱されるままであった。少しも抵抗しないし、抗議もしない。されるがままである。ここには兵士たちに侮辱されるがままの弱くて無力でみじめなイエスの姿がある。兵士たちから侮辱されている時、イエスは何を思い、考えておられたのか。
  • このイエスが救い主であると聖書は告げる。しかしこのような人がどうして救い主でありえるのか。だれもが思う。救い主というのはヒーローである。ヒーローらしさが求められる。イエスの教えには権威があり、もっと聞きたいと感じた人々は沢山いた。多くの人がイエスのもとに集まった。また病人をいやし、悪霊で苦しんでいる人から悪霊を追い出し、いやした。少しのパンで沢山の人の腹を満たした。確かにイエスにはヒーロー的な面はあった。しかし今や、みじめな姿をさらしている。そしてこのまま十字架で処刑されて死ぬ。十字架の上で、人々が注目する中で一発逆転となるようなことが起きればまだしもそれもない。
  • この人が救い主だなんて、信じることはできないと人は思う。十字架はユダヤ人にはつまずき、ギリシャ人には愚かなものである。イエスは救い主とは真反対のところにいる。誰だってそう思うにちがいない。しかし使徒パウロは、キリストの十字架を誇るという(ガラテヤ6:14)。一体、何を誇るというのだろうか。
  • 神はキリストを立て、その血によって信じる者たちのために罪を償う供え物としたとパウロは述べる(ローマ3:25)。旧約聖書には、イスラエルの民が罪を犯したとき、神はいけにえをささげて罪の償いをするように命じた。いけにえの血でもって罪を償うのである。しかし人間をいけにえにするなんてぞっとする。旧約聖書を読むと、人々が自分の子をいけにえとしたことについて神は非難しているではないか。レビ記20章。人間が人間の都合で子どもを異教の神にいけにえとしてささげるのはよくないと書いてある。それなのに神はやっていいのか。神は御子を罪の償いの供え物にしたという。
  • 神が御子を供え物にするとは、よほどのことである。神ご自身非難されてもおかしくない。イエス自身ゲッセマネの園で、これを取りのけてくださいと祈られた。つまり他に方法がないのですかと神に問うた。方法がないなら、み心に従うと祈られた。ということは他には方法がないということになる。
  • 御子イエスを供え物にすることが最後の手段であり、これしか方法がないとしたら、それは何を目指しているのか。旧約聖書ですでに罪を償うためには動物のいけにえを献げるという儀式が用意されている。それではいけないのか。
  • そもそも神はなぜ、罪の償いを命じられたのか。それは神がイスラエルの民と契約を結んだからである。神はイスラエルの民の神となるといわれた。そしてイスラエルの民は、神の民となると約束した。神とイスラエルの民は特別な関係を持つこととなった。イスラエルの民は神の民として生きることを選んだ。なぜ、神との関係に生きることをイスラエルの民は選択したのか。
  • それはイスラエルの民がエジプトで奴隷として苦しんでいたのを神が救い、彼らを奴隷状態から解放したからである。神は救いの神であり、イスラエルの民は、この神と共に生きることを選んだのである。神も、あなたがたの神となると言われた。神はイスラエルの民を愛し、イスラエルの民は神を愛するのである。これは特別な関係である。そしてイスラエルの民が神に対して神の戒めを破ることをした時、聖書はそれを罪を犯すと語る。イスラエルの民が罪を犯した場合、神は罪の償いをすることを求めた。つまり、自分の間違った行動を認め、同じことをしないと約束するのである。この罪の償いのためにいけにえを献げるのである。こうして神とイスラエルの関係が保たれる。
  • この神とイスラエルの民は、結婚の関係に似ている。互いに愛し合うのである。それはなぜかと言えば、そこに祝福があるからである。結婚において一方が姦淫を犯し、自分の伴侶を裏切るようなことをすれば、夫婦関係は危機に陥る。離婚という形で夫婦関係が終わることはしばしば起きる。しかし神はイスラエルとの関係を破棄したいとは思わないのである。だから民が罪を犯した場合にはいけにえをささげれば罪を赦し、あなたたちの神となると言い続ける。
  • こういういけにえを献げるシステムがすでに旧約聖書にある。それなのになぜ、神は御子を立て、罪の償いの供え物としたのか。
  • 旧約聖書に書かれているイスラエルの歴史において、イスラエルの民は、繰り返し、神の民として生きることを拒んだ。彼らは偶像礼拝をした。つまり自分のしたいようにして生きることを選んだ。神との関わりに生きるのではなく、神との関わりは捨て、自分の生きたいように生きる道を選んだ。イスラエルの民が偶像礼拝をすることを神は姦淫と呼んだ。イスラエルの民は彼らを救いだした神ではなく、別な神を礼拝したからである。
  • 神は繰り返し預言者をイスラエルの民に送り、神に立ち帰るように語らせた。時には、立ち帰らないなら、裁きを下すと語った。実際にイスラエルの民を懲らしめたこともある。結局、神の裁きはイスラエルの国の滅亡を招いた。
  • どうしたらイスラエルの民は神に立ち帰るのか。神にとっての課題である。神は最初にイスラエルの民を選んだ。それは神が全人類の神となるためでもあった。イスラエルの民は神を信じて生きることの幸いと必要を全人類に示す使命を神から与えられた。でも彼らはその使命に生きることに失敗した。でもこれは神にとっては想定済みのことである。
  • 神はいかなる方か。神は神の民と共に生きることを願う方なのである。どんなに相手から裏切られてもなお相手を求めるのである。ここに神の愛を見ることができる。時満ちて、神は新たな計画を始める。つまりイスラエルの神から、全人類の神となる時を迎えた。そこで神は救い主となる方、イエスをこの世に遣わした。イエスは人はいかに生きるべきか神の御心を教えた。神は強い味方であることを示すために病人を癒やしたり、悪霊を追い出したりした。イエスは神の御心を告げる預言者ではない。それ以上の方である。人となられた神なのである。イエスを見た者は神を見たと言われる。
  • このイエスが全世界に宣べ伝えられ、すべての人がイエスを信じ、神を信じることが神の願いである。問題が一つある。人間の罪である。神との関わりに生きるよりも自分の生きたいように生きようとする人間の罪である。信仰者において罪はくっきりと現れる。神をも利用する人間の身勝手さである。神は自分の願いを聞いてくれればよい存在となる。人は自分の生きたいように生きることに自由を感じる。それが罪だなどとは思わない。神を知らないからである。だから人間が神を知り、神と関わって生きることを積極的に選ぶことができるようにする必要がある。
  • その鍵となるのは、イエスの十字架である。救い主はなぜ、あのようなみじめで無力な姿をさらさなければならないかである。神は人間を招いておられることはよく分かった。神が人間と共に歩むことを願う神であることが分かった。人間がどのように背を向けても、神は人間を見捨てず、人間が立ち帰るのを待つ神であることも分かった。それを聖書は愛と呼ぶことも分かった。
  • もしイエスが、罪償いのための供え物であるなら、別な死に方もあったのではないか。でもあのみじめな、無力な、無抵抗の姿での十字架の死である。なぜこのような死に方をしたのか。
  • 人間の罪の償いであるから、本来は人間自身がその身を供え物として償うべきである。しかし自分の命をささげるわけにはいかない。だから動物をいけにえとした。しかし人間の罪を償うなら、人間が供え物となるべきである。だからイエスが罪を償う供え物となった。
  • 今回の罪の償いは、ただ罪の赦しを受けるだけの意味しか持たないものであったら、それは動物のいけにえと何ら変わりがない。今回の罪の償いの死は、人間を再生させるものでなければならない。つまり自分の生きたいように生きる人間から、神との関わりに生きることを喜ぶ人間の再生ということがなければ、イエスが供え物となる意味はない。
  • イエスは神のみ心に従い苦難を味わう。ひどい侮辱を受ける。あざけられる。なぜ、抵抗せず、されるがままに任せたのだろうか。イエスは人間の罪を見た。宗教指導者たちが神を信じると言いながら神が遣わした救い主を信じないのを見た。信仰が自分を誇るための手段になっているのを見た。神を信じると自称する者たちの不信仰という罪を見た。
  • そして扇動されて理性を失い、イエスを「十字架に付けろ」と叫ぶ無責任な群衆の罪を見た。ローマ総督として公正な裁きをすべきなのに保身のために、イエスを釈放せず、処刑することを認めたピラトの罪を見た。そしてイエスを愚弄するローマの兵士たちの卑劣な罪を見た。
  • イエスは目の前に人間の罪を見た。見せられた。終末の日に神の前に出る時、人は自分の犯した罪を思い起こさせられるのではないか。気づいていない罪も沢山あるだろう。自分の罪を見せられる、これは裁きである。イエスは自分を死に追いやる人間たちの罪を見た。すでに神の裁きは始まっている。
  • イエスはなぜ、無力で無抵抗でされるがままに侮辱され、あざけられ、体は打たれ、つばを吐きかけられたのか。イエスの姿は、神の裁きを受けている人間の姿かも知れない。

イザヤ
53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。

  • イエスがみじめさを味わえば味わうほど神の裁きを味わうことになる。イエスが担う人間の罪に対する神の裁きはもう始まっている。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>イエスは、兵士たちからひどい侮辱を受けた。しかし抵抗せず、ただされるがままに任せた。無力で、みじめな姿をさらした。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、イエス様が兵士たちからひどい侮辱を受けた様を読みました。救い主がなぜこれほどの目に遭わなければならないのかとか立ち止まります。このようなあざけられ、ののしられ、痛めつけられたのはなぜなのでしょうか。イエス様はなぜ抵抗もせず、なすがままにされたのでしょうか。
  • イエス様は十字架の死で象徴される苦しみを罪に対する神の裁きとして、すでにお受けになられたのだと考えます。そしてイエス様がこれほどの目に遭われたのは、私の救いのためであったと信じます。私を罪から救い出すために兵士たちからも苦しみを受けられたと信じます。イエス様の苦しみはまだ続きます。
  • 天の父よ、私たちは自分の罪がどれほど問題であるかをなかなか知ることができません。他者の犯す罪と比較し、自分の罪は大したものではないと考えたりします。それは人間中心的な見方です。罪というのは、あなたをないがしろにすることですから、それがどれ程のさばきを招くのか、私たちには分かりません。イエス様の受けた苦しみを思うとき、イエス様の苦しみを招くほどのものであると受けとめたいと思います。
  • そして私の犯した罪はイエス様を信じることを通して赦されたことを感謝します。あらためてイエス様による罪からの救いは、罪の赦しに留まらず、罪からの再生を含むことを思います。
  • 今日はあなたが私たちに救いを与えて下さったことを感謝し、賛美と感謝の祈りをあなたに捧げることにします。
☆与えられた導き
  • 賛美と感謝の祈りを捧げる。
    讃美歌142番