第二コリント7章8~13節 相手を思うパウロの愛

2021年10月4日

(内容)

  • パウロがコリント教会宛に書いた手紙はコリント教会の悔い改めをもたらし、パウロとコリント教会の関係が回復した。パウロは慰められた。

(黙想)

  • パウロの手紙を読んでコリント教会の人たちは悲しみ、そして悔い改めたとある。11節の「例の事件」が何を指しているのか分からない。不義を行った者と被害者がいると書かれている。2章5節以下に書かれていることも同じ事件を指していると思われる。そしてこの被害者がパウロであることも考えられる。コリントの人たちがパウロを非難したということを婉曲的に示していると理解することもできる。しかし具体的なことは明確ではない。
  • おそらくパウロがコリント教会を訪問したとき、コリント教会のある人たちがパウロを強く非難したのではないかと推測される。そして他のコリント教会の人たちは、パウロの弁護をしたわけではないと想像される。それでパウロは涙ながらに手紙を書いた。それを読んだコリント教会の人たちは悲しみながらも悔い改めたと想像できる。
  • ここで教えられることは自分の罪を悲しむこと。悲しみ方について。神の御心にかなった悲しみとは自分の罪を悔い改めること。それは救いに通じるとされる。世の悲しみは、自分の罪を悔い改めず、自己弁護しあるいは自己憐憫に陥ることである。あるいは自分を責め続ける。これらは何の益ももたらさず、救いに至らず、死をもたらすとある。
  • パウロは自分が手紙を書いた目的を、コリント教会の人たちがパウロに対する熱心を神の前で明らかにするためであったとする。コリント教会の人たちが悔い改め、パウロを使徒として慕うようになったのでパウロは慰められたと書いている(7,13節)。
  • 人間的なレベルで考えると、パウロが手紙を書いたのは、コリント教会の人たちが悔い改め、パウロを使徒として認めること、つまりパウロの名誉挽回のために手紙を書いたと考えてしまう。そして挽回できてよかったと思う。でもパウロはそう考えない。コリント教会の人たちのパウロに対する熱心さが明らかになったと書く。パウロの視線は自分ではなく、相手に(コリント教会)に向かっている。こういうパウロの書き方に少なからず違和感を感じたのは、僕は自分に視線を向けているからなのだろう。これは反省させられる。悔い改めるべきである。パウロはあくまでもコリント教会(員)を愛している。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>自分の犯した罪を悲しみ、悔い改めること。これが神の御心にかなった悲しみである。
  • <模範>私たちはとかく自分に目が行く。しかしパウロは相手を見、相手のことを思っている。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神、今日も聖書を読むことができ感謝します。何か事が起きたとき、自分の立場で考えるのではなく、相手の立場で考えるパウロのあり方に教えられます。コリント教会との関係で、コリント教会の人たちが悔い改めて、パウロを使徒として認め、信仰の師としてパウロを慕い求める姿勢を示しました。パウロは、コリントの人たちが示したパウロへの思いに慰められました。
  • もし自分だったらどうなのかと思います。色々あったがようやく、コリント教会の人たちは自分を使徒と認めたか、よかったと自分に目を向けるかも知れないと思いました。愛するとはどういうことか教えられます。相手の気持ちを大切にし、相手の気持ちを喜ぶパウロの姿に教えられます。
  • 天の父なる神、私は引退牧師であり、コロナ禍の自粛生活の中にあって他者との関わりはとても少ない現実の中にあります。先日届いた手紙に対する返事を今日書くことにします。そして今日は与えられた説教奉仕に関して、説教テキストをさらに黙想をして、説教テキストと説教題の連絡もしたいと思います。
☆与えられた導き
  • 手紙の返事。
  • 説教題と説教テキストの連絡