第二コリント 3章7~11節 二つの務め

2021年7月7日

(内容)

  • パウロは文字に仕える務めと霊に仕える務めを対比する。パウロはそれを、人を死に定める務めと人を義とする務め、あるいは、消え去る務めと永続する務めと言い換えている。

(黙想)

  • ここでは務めの比較がなされているが、それは律法と福音の違いでもある。
  • 文字に仕える務めがあり、これは「死に仕える務め」とも言われる(7節)。さらに「人を罪に定める務め」(9節)と言われる。そしてこの務めは栄光を帯びていると言われる(7節)。これらは律法に関わる務めであり、否定されるべき務めではない。この務めは栄光を帯びており神の御心にかなう務めであった。しかし霊に仕える務めは「人を義とする務め」(9節)と言われる。
  • この二つの務めは共に栄光を帯びていると言われる。そして霊に仕える務めの栄光は文字に仕える務めの栄光にまさっている。文字に仕える務めは消え去るべきものであり、霊に仕える務めは永続的な務めである。
  • 律法は神の律法であり、善なるもの(ローマ7:16)、聖なるものである(7:12)。律法は信仰者に何をなすべきか、神の御心を教える。律法は大切なものである。律法を教えることは大切であある。
  • しかし律法は、それを行う力を人に与えることはできない。同時に律法は、人を罪に定める。つまり人が律法を守らなければ、罪を犯したとして、人を罪に定める。それゆえ、律法は人に罪の自覚を与える(ローマ3:20)。
  • モーセは神から律法を与えられ、これを民に教えた。これは栄光を帯びた努めてであり、モーセの顔は輝いていたという(出エジプト34:29~34)。
  • 霊に仕える務めをパウロはキリストから与えられた。福音に仕える務めである。福音は、律法を成就する。律法を行う力を与える。人を義とする務めであるという。福音はイエス・キリストを信じる者を義と宣言し、さらに義なる人へと変えていく。
  • パウロは、霊の務めに仕える者であることを明らかにし、そこにこそ使徒としての証しがあると語っている。
  • コリント教会の人たちの理解力はどれほどなのかと思う。おそらく我々と変わらない人たちである。そしてパウロのこの手紙の意味を明らかにするために現代では注解書が書き表されている。コリント教会の人たちには注解書はない。彼らはパウロの手紙をどれほど理解できたのだろうか。パウロの手紙は懇切丁寧ではない。しかし我々に真理を伝えている。そして我々に考えること、自分を吟味すること、福音は何かを探求するように招いている。
  • 「霊は生かします」(3:6)。福音は信仰者を生かす。つまり福音は、信仰者を栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えるのである(3:18)。それは主の霊の働きであるという。
  • 文字に仕える務めの働きは、
  1. 神の御心を教える。
  2. それを行う力を与えることはできない。
  3. 人は律法の実行できず、自分の罪を知る。
  4. 人は律法の要求を満たすことができない。
  5. 自分は神の御心を行うことができない人間であるという結論へ人を導く。それゆえに文字に仕える務めは「死に仕える務め」「人を罪に定める務め」と言われる。
  • 文字に仕える務めは神がモーセに与えた務めであり、栄光ある務めである。それは不十分な務めである。しかし福音が登場するための先駆者として、どうしても必要であった。律法によって罪を自覚するからこそ、救いへと招かれるのである。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • (教え)文字に仕える務めとは何かを知ること
  • (教え)霊に仕える務めとは何かを知ること

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、私はあなたによって霊に仕える務めに招かれたことを信じ、感謝します。今は毎週の説教に負われることはなく、時間がありますので、きちんと霊に仕える務めとは何かを整理し、学び、ブログを通して伝えたいと思いました。
  • 今日は「文字に仕える務め」についてブログに書くことを適用とします。
☆与えられた導き
  • 文字に仕える務めについてブログに書く