マタイ福音書 5章38~42節

2020年8月14日

(内容)

  • 「目には目を、歯には歯を」と昔の教えにあるが、イエスは悪人に手向かうなと教える。

(黙想)

出エジプト記 21:24
目には目、歯には歯、手には手、足には足、

  • 人が誰かに対して損傷を与えた場合の規定。自分が与えた損傷と同等の賠償をすればよいとの教え。誰かから危害を加えられた場合は、人は恨みを晴らしたくなる。自分がされた以上のことを相手にしたくなる。今日の言葉で言えば「倍返し」。神の律法は、自分が受けたのと同等の賠償を受けて満足すべきことを教えている。これは法として納得のいくものである。

レビ記 24:19
人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。

  •  このレビ記の文章の主旨も同様である。

申命記 19:21
あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。

  •  申命記は裁判の判決をどうするかという文脈での言葉。損害を与えた者に憐れみをかけることなく、同等の損害の賠償をすべきことを命じている。
  • これらに律法に対して、イエスは「悪人に手向かってはならない」と教える。まずこの教えは、キリスト者に対する教えであり、この世の人々に対する教えではない。イエスを信じる者への教えである。
  • 旧約の律法は、人から悪を受けたのなら、同等の賠償で満足すべきことを教えている。それに対して、「わたしは言う」とイエスは語る。さらに踏み込んだことを教えている。「悪人に手向かうな」。
  • これは相手に賠償を求めない態度を意味する。右の頬を打たれたのなら、左の頬をさし出しなさいも、相手に責任を問わない態度を意味している。
  • どういうことか。自分が損害を受けたのなら、弁償を要求してよい。しかしそれを放棄するというのである。この箇所の黙想はロイドジョンズの『山上の説教』に教えられた。彼によれば、ここでイエスは自分に執着しないことを教えているという。自我を捨てることを教えているという。弁償を要求できる権利を放棄する。世の人々にはできない。そんな教えは愚かでバカバカしい。第一自分が損をしてしまう。
  • しかしイエスを信じるキリスト者は弁償を要求できるのにそれをしない。要求できる自分に執着しない。左の頬をさし出すのも、相手の頬を打つ権利を捨てることである。
  • 裁判で下着を取ろうとする者には、上着をも与えるという。裁判なら下着を与えればそれで十分である。さらに上着を与えるという。上着は与える必要がない。なぜ与えるのか。自分の物に執着していない態度を教えている。
  • 一ミリオン行くように強いられた時、二ミリオン行くという。断ることができるのにそれをしない。借りようとする者に与えるとは、自分の所有物に固執しないことを意味する。
  • そういえばイエスは教えられた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)。
  • また聖書には次のような教えもある。

ローマ 12:17
だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。

ペトロ一 3:9
悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • <命令>悪人に手向かうな。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。今日の箇所は有名な箇所ですが、必ずしもわかりやすいとは言えません。ひとまとまりになっているので、一つのメッセージを伝えていると思いますが、それが分かりません。復讐をするなと見出しがありますが、「あなたから借りようとする人に背を向けるな」との教えの関連性がよく分かりませんでした。
  • 今回は、ロイドジョンズ牧師の助けを借りました。この箇所でイエス様は、自分の権利、自分の持ち物など、自分に執着すること、自我を捨てることを教えていると説明されていてよく理解できました。そういえばイエス様は、「わたしについて来たい者は自分を捨て」と教えておられました。
  • 確かに「自分が」「自分が」というこだわりは自己中心に他なりませんし、ここから罪が生まれてくるということもできます。
  • 3週間ほど前でしょうか、礼拝から帰宅するとポストに1枚のメモが入っていました。そこには私の車に傷をつけたので、連絡して欲しいとのことでした。私は留守をしていました。どうしたものかと考えました。弁償してもらうためには修理の見積もりを取らなければなりません。その時、どういうわけか、何が何でも弁償してもらわなければならないという気持ちにはなりませでした。一つには、車には私がつけた傷が他にもあるからです。そして見積もりを取るのが面倒くさいとの思いもありました。また傷がひどくないなら、見過ごせるからとの思いもありました。
  • 相手の人に私は「正直に車に傷を付けたことを話してくれたので、私はうれしく思っています。正直に話してくれたことで十分です」と言いました。
  • 私が自分に執着しない信仰者になったのかどうか分かりません。悪魔は「面倒になっただけのことだ」と言うと思いますが、それでもあの時、「寛容」という言葉が、頭をめぐっていたことは確かです。今日の聖書を読んで、自我に執着する心が少なくなっていることを感謝したいと思いました。それにしてもイエス様の教えは深いと思いました。これからもイエス様の教えを深く学ぶことができるように導いてください。
☆与えられた導き
  • 自分への執着が少なくなっていることを感謝する。