第一コリント 10章1~13節

2020年11月12日

(内容)

  • パウロは、エジプトの奴隷支配から解放されて約束の地を目指して歩むイスラエルの民の不信仰が反面教師として私たちに与えられていることと、試練に直面した時に信仰者を励ます言葉を添えている。

(黙想)

  • 1~4節はわかりにくい。5~10節は奴隷の地エジプトを脱出したイスラエルの民が荒野の旅の中で試練に出会ったときに不信仰のゆえに失敗したことが書かれており、キリスト者は同じ過ちをしないように、と警告されている。
  • 1節で「わたしたちの先祖」とある。これをイスラエルの民と考えることができる。3~4節はイスラエルの民が荒野を旅する中で飢え渇きに苦しんだとき、神が食物を与え、飲み水を与えたことが書かれている。ここではそれが霊的な食物、霊的な飲み物と書かれている。1~4節は奴隷の地エジプトを脱出し荒野を旅するイスラエルの民について語っていることが分かる。「この岩こそキリストだった」というのは、正直、理解しにくい。パウロが生きていた時代の背景が何らかの形で反映されていると思われる。
  • 「モーセに属するもの」(2節)という形で、イスラエルが神の民であると言われている。モーセに属する者となる洗礼というのはここだけにある表現であり、これはキリスト者が洗礼を受けた結果、主イエスに属する者、主イエスに結ばれた者であることと対照をなしている。「わたしたちの先祖」の「わたしたち」は神の民を表すと考えると、教会は新しい神の民であり、この教会には異邦人も属している。
  • 7節ではイスラエルの民が偶像礼拝をしたことが書かれている。これはおそらくシナイ山の麓で金の子牛像を造ったことを指している。

出エジプト 32:6
彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。

  • 8節のみだらな行いは、民数記25章。そこにはイスラエルの民がモアブの娘たちに誘われ、バアルを礼拝したことが書かれている。神の憤りの結果、24,000人の人が死んだとある。
  • 9節にはキリストを試みたとあるが、聖書に即しているなら、神を試みたのである。民数記21章。イスラエルの民が神に、なぜ自分たちをエジプトから導き出したのかと不満を言う。彼らは毎日、天から降ってくるマナを食べているが、これが粗末な食事だと文句を言っている。不平を言った者たちは炎の蛇に噛まれて死んでいる。
  • 試練の時は、信仰が試されるときである。試練に直面したときイスラエルの民は不平を言った。偶像礼拝をし主なる神を捨てる者は、主なる神に対しても不平や文句を言うことが分かる。それは自分の思い通りに生きようとするからである。神に信頼するときは、徹底して信頼することが大切と知る。13節以下は、よく知られた言葉であり、多くのクリスチャンを支えるみ言葉である。
  • 耐えられない試練はない。神は逃れの道を用意してくださる。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>父なる神は私たちを耐えられない試練に遭わせることはしない。
  • <御父>父なる神は真実な方である。
  • <御父>父なる神は、試練の中にある私たちに逃れる道を用意してくださる。
☆神が私たちに求める生き方
  • <教え>試練の中にあって、神に信頼すること。試練の中で、どうすることが神に信頼することなのかを考えること。
  • <教え>偶像礼拝とは、神以外のものに信頼をおくことである。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、イスラエルの民は、あなたがエジプトで大いなる業を行われたことを、荒野の旅の中でも天からマナを降らせ、岩から水を出させ、イスラエルの民を守ってくださったことを経験しました。でも彼らはこれらのことを思い起こしてあなたに信頼しようとはしませんでした。あなたが約束の地に連れて行くとの約束も信じませんでした。彼らはあなたとの関わりに生きることをせず、自分の思い通りになることだけを求めていました。このようなイスラエルの民の歩みに倣ってはいけないとパウロは警告しています。
  • 試練に直面したとしてもそれは耐えられないような試練ではなく、必ず神は逃れの道を用意しておられる、神は真実な方であるとパウロは教えました。パウロが教えるように真実であるあなたに徹底して信頼する信仰の歩みます。
  • 天の父なる神さま、私は来週手術をする予定になっています。手術の必要を知った日から、ストレスを感じ、それは日々測定する血圧にも表れました。しかし今平安を与えられ血圧も下がりました。面白いものですね。
  • 手術も一つの試練です。不安や恐れが襲ってきます。信仰者であれば神に信頼すべきだと考えます。信頼すべきだと考え信頼することにしても、信頼から来る平安がすぐに訪れるとは限りません。でも今回は、幸いなことに澄み切った平安が与えられ、本当に感謝です。手術のために祈ってくださっている方がおられ励まされます。私も無事に手術が行われること、執刀する医師やスタッフを神さまが支えてくださることを願いました。実際に執刀してくださる先生に受診したあと気づきました。執刀する医師に対する信頼と感謝の気持ちを持つべきことを。ここには私の一つの決断があります。信頼という決断。これは具体的です。イスラエルの民はこの決断ができなかったのです。そしてこの決断ができたとき、平安が訪れました。感謝です。今までイスラエルの不信仰を指摘していましたが、自分が荒野にいなかったことを教えられました。これはうれしい発見です。ブログで分かち合いたいと思います。
☆与えられた導き
  • ブログに分かち合う文章を書く