第一コリント 5章1~8節

2020年9月30日

(内容)

  • コリント教会にみだらな行いがあるということを聞いて、パウロは、そのような人を教会から除外すべきことを忠告する。

(黙想)

  • ここでのみだらな行為とは、ある人が父の妻をわがものとしている、という内容である。父の妻は自分の母親ではないと思われるから後妻となる。後妻はそれなりに若いのだろうか。息子が父の後妻と関係を持っている。
  • パウロは、問題ある行動をしている者を除外すべきことを説く。除外とは、教会から追い出すことであり、今日の言葉で言えば除名することである。
  • 問題のある男性は、自分の行為を悔い改めようとはしていないのだろう。彼が悔い改め神に赦しを求めるなら、教会は彼を受け入れるべきである。悔い改めない者の行為をあいまいにしたまま、教会に受け入れることはできない。けじめをつけることが必要だとパウロはいう。
  • それは教会の「きよさ」を保つためといえる。きよさを保つという言葉をパウロは使っていないが、教会は種の入っていないパン種だと語る。過越祭の時、イスラエルの人たちは酵母の入っていないパンを食べた。パウロはコリント教会は、酵母の入っていないパンだという。このパンが過越の夜、食された。過越祭を祝う、それは救いを喜ぶこと。
  • 教会は練り粉であり、まだパン種が入っていない。悪いパン種が加われば、練り粉を膨らませる。教会を堕落させることになる。だから、悪いパン種となる人は、教会から除外しなければいけないとパウロは書く。教会はきよさを保つために汚れは落とさなければならない。
  • このように書くときパウロは、パウロ自身は、みだらなことをしている者を「既に裁いている」と語り、「その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡した」と語る。それは「主の日に彼の霊が救われるため」とある。「サタンに引き渡す」という言葉は穏やかではない。サタンに引き渡すとは、教会から排除することの別表現と考えられる。教会の外に出れば、世はサタンの支配の下にあると考えることができる。後は神にゆだねるのである。
  • 一番いけないのは、悪しきパン種を教会の中に置き、練り粉を膨らませることであり悪しきパンができあがってしまう。曖昧な態度を取ることに注意するように促される思いがする。除外するというのは、愛のない行為に見え、受け入れることが愛とされる雰囲気が教会にはありがちである。そこには自分たちが悪く思われたくないという恐れがひそんでいる。
  • パウロは何の処置もしないコリント教会を「高ぶっている」(2節)、「誇っている」(6節)と考え、よくないと咎める。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • (教え)教会の中で悔い改めず悪を行い続けるものは除外すべきである。
  • (教え)教会は、パン種の入っていない練り粉であり、悪意と邪悪のパン種で膨らんではいけない存在である。教会は、「きよさ」を持つ存在であり、人の罪によって汚されてはならない。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、教会は聖なる教会であることをあらためて思わされました。悔い改めることなく、罪を犯し続ける人は除外すべきことを教えられました。教会のきよさを保つためであり、その人については、あなたにゆだねるべきことを教えられました。
  • 他方で教会は愛の共同体なので、教会の一員を除外することにためらいを感じます。あいまいにして放置するのはよくないことですね。コリント教会のことをパウロは、「高ぶっている」「誇っている」と指摘しました。教会に問題があるのに、問題がないかのように振る舞うことが高ぶるということなのでしょうか。
  • 今日心に残ったことは、あいまいにすることをやめ、はっきりさせることが大切だと教えられました。心にある「あること」について、はっきりした態度をとることにします。
☆与えられた導き
  • あることについて、あいまいにせずはっきりした態度をとることにする。