ネヘミヤ記 8章

2018年3月1日

(内容)

  • これまでの城壁再建とは、一見関係のない出来事が記述されています。7章でバビロンから帰還した人たちの名前が記録されていることと結びついて、この8章が書かれています。帰還した人々は書記官エズラにモーセの律法の書を持ってきて朗読するように求めました。エズラが朗読し、レビ人が解説を行いました。イスラエルの人々は律法の言葉を聞いて泣きました。
  • ネヘミヤ、エズラそして律法の説明に当たったレビ人たちは民に、「今日は、主にささげられた聖なる日だ。泣いてはいけない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」と励ましました。
  • また律法に記載されている仮庵の祭りを祝い、大きな喜びの祝いが行われました。

(黙想)

  • ペルシャから帰還した人たちは、エズラにモーセの律法の書を持ってきて、朗読するように求めました。これは何を意味しているのか、です。
  • イスラエルの人々が捕囚となってバビロンに連れて行かれたのは、BC587年です。そしてペルシャがバビロン帝国を倒し、ペルシャの王がイスラエルの民に帰還を許したのが、538年です。それ以降、イスラエルの人々は、帰還を続けたようです。
  • 少なくともイスラエルの民はバビロンで50年を過ごしました。ですから帰還した民は、その多くがバビロンで生まれた人と言うことができます。捕囚前のことを覚えている人は、60才以上の人となります。ですから、帰還民の大半はバビロンで生まれた人たちであったと思われます。
  • 帰還した人たちは、どのような精神的支柱をもって生きるのでしょうか。彼らは、神の民という意識を持っていたと思います。ですから、神の民という意識を共有し、神の民として生きることを模索していたと思います。それが8章において、モーセの律法を聞く、という集会を開くこととなりました。自分は何者なのか、というアイデンティティーを意識している民でした。神の民、神に選ばれた民という意識を持っていたのです。
  • エズラがモーセの律法の書を朗読し、レビ人が説明をするに及び、イスラエルの民は泣き出しました。9節で「嘆いたり、泣いたりしてはならない」とありますから、悲しみのゆえに泣いたと推測できます。
  • イスラエルの人々は、捕囚がなぜ起きたのか、自分たちはなぜバビロンで生まれたのか、その理由が分かったのです。自分たちよりも先の時代のイスラエルの人々は神の民であり律法を授かっていたのに、それを守らず、神に背き不信仰に陥ったこと、そして悔い改めず神の怒りを買い、国は滅び、イスラエルの民は捕囚の民となってバビロンに連れて行かれたことを知りました。
  • 人々は律法の書の朗読を聞き、泣きました。彼らは、先の時代のイスラエルの人々の不信仰のゆえに、自分たちはバビロンという異国に生まれ、異国で生活を余儀なくされたと責めることはできたと思います。しかし彼らが泣いたということは、先の時代のイスラエルの人々の不信仰を自分のものとして受けとめ、泣いたと思われます。もし自分もそこにいたら、不信仰に陥っていたのではないかと考えたのです。あるいは先の時代の人の罪を自分たちの罪として負う思いを持っていたと思われます。
  • ネヘミヤ、エズラやレビ人は、「今日は主にささげられた聖なる日だ。泣いてはならない。むしろ主を喜び祝いなさい」と勧めました。「主を喜び祝うことこそ、あなたがたの力の源である」(10節)と励ましました。罪を悔いて泣くのではなく、主を喜び祝う信仰に生きるように勧めました。

(聖書に聞く)

☆神が求める私たちの生き方
  • (教え) 10節。主を喜び祝うことこそ、力の源です。

(黙想)

  • 律法の書の朗読を聞く、これは礼拝です。エズラの朗読が終わり、律法の書を閉じ主を讃えると、人々は「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝したとあります。礼拝とは主を喜び祝うことです。礼拝において悔い改めに導かれることがあったとしても、信仰者を生かすのが神であり、その神を喜び祝うことに礼拝の目的があります。
  • 礼拝において、喜び祝うことは一つの出来事です。礼拝は、喜び祝うことが出来事として起きる時、礼拝となると言えます。イスラエルの人々は律法の書の朗読及びその説明を聞いて悲しみ、悔い改めに導かれました。悔い改めも礼拝において起きる出来事です。悔い改めは、さらに主を喜び祝うことへと導かれるものです。
  • 主を喜び祝うことこそ、力の源であるとありますが、喜び祝うこと自体が力です。主なる神を信じて生きていこうとの励ましが与えられ、信仰が強められます。礼拝が形式化するとき、この力は失われ、信仰はマンネリ化していきます。
  • イスラエルの人々が一つとなって水の門の前の広場に集まり、律法の書の朗読を聞き、その説明を聞いたことは、私たちの礼拝につながるものがあります。私たち信仰者が一つとなって集い、神さまへの礼拝が献げられます。一つとなって集う、このこと自体が、一つの出来事です。私たちも神の言葉を求めて集いますから。そして礼拝で聖書朗読がなされ、説教・神の言葉を聞くとき、主を喜び祝うことが出来事として起きるのです。それによって礼拝が礼拝となります。
  • 私たちはどんな備えをして礼拝に参列したらよいのでしょうか。神の言葉を求める心が大切となります。イスラエルの人々はエズラに律法の書を持ってくることを求めました。さらには聖書を説き明かす説教者のために祈ることも大切となります。さらに聖書を前もって読んで、聖書を味わい、どんな説き明かしがなされるのかを期待することも大切となります。礼拝に連なる一人びとりに喜び祝うことが出来事となるように祈ることも大切であると知らされます。こう考えてくると、礼拝に行くことが、喜びに満ちたことであると思わされます。

(神の導き)

☆祈り
  •  天の父なる神、私たちもまた一つとなって礼拝に集うことが許されています。どうか、備えをもって今度の日曜日の礼拝に出席することができるように導いてください。
☆与えられた導き
  • 祈る(説教者の準備に導きを、礼拝に集う一人びとりに礼拝が主を喜び祝う出来事となるように)
  • 説教で取り上げられる聖書テキストを読み味わう。