ルカ福音書 12章49~53節

2018年9月15日

(内容)

  • イエス様は、地上に火を投じるためにおいでになりました。しかし地上に平和をもたらすために来られたのではありません。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)49節。御子は地上に火を投じるために来られた方。
  • 火を投じるとはどういうことなのでしょうか。「その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか」とあるので、まだ火が燃えていないこと、そして燃え上がることをイエス様は願っていることが分かります。50節にはイエス様が受ける洗礼、つまり十字架の死が言及されているので、火が燃え上がるのは、イエス様の死後、昇天後、弟子たちが福音を宣べ伝えて以降のことと考えることができます。宣教の火が燃え上がり、福音宣教が活発になされていることを意味しているのかもしれません。とすれば火を投じるとは、福音を伝えることと考えることができます。
  • (御子)50節。イエス様は十字架の死に向かって、「わたしはどんなに苦しむだろう」と自分の苦しみを感じている方。イエス様はとてつもない苦しみを味わわれた方です。
  • (御子)51節。主イエスは地上に分裂をもたらすためにおいでになった方です。そして家族間の分裂に言及されています。
  • 家族が分裂するとは、同じ家族でも福音を受け入れる人と受け入れない人がいることを意味していると思います。人が福音を受け入れるか否か、それは個人的なことであることが示唆されています。夫婦だからといって、兄妹だからと言って、福音を聞いたら必ず共に受け入れるとは限りません。時には、福音を受け入れるか否かが家族の間で問題になることもあります。信仰における絆、つまり信仰者と神との絆は、家族間の絆よりも強いことが教えられます。自分の罪を知り悔い改めることは、非常に個人的なことであることが分かります。そして大切なことであることが分かります。
  • 家族がみな福音を受け入れることは幸いなことです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒言行録16:31)。

(神の導き)

☆祈り

イエス様は「私はどんなに苦しむことだろう」と語られました。自分が近い将来、大きな苦しみを苦しむことを予期しています。ゲッセマネの園で祈られたとき、汗が血のしたたるように地面に落ちた、とあります。大いなる苦しみの中で祈られたことを思います。神の子が言葉では言い表せないほどの苦しみをしなければ、私たち人間は救われないことを教えられます。世を見れば、人は救いなど必要ないかのように生きています。しかしこの世界には戦争があり、貧困があり、さまざまな苦しみがあり、人間の罪が問題を引き起こしていることは明らかです。その解決のためにイエス様がおいでになったのに、多くの人々は無関心です。
平和のために祈り、また政治のために祈り、貧困がなくなるように祈っても、事態は変化せず、祈ることの空しさを感じることもあります。私たち人間の嘆きは、イエス様の苦しみから見たら、ささやかなものです。しかし、私たちは神さまのみ業が現れ、人間の置かれている事態が少しでもよくなることを願います。忍耐強く祈ることですね。
空しさを言うなら、イエス様こそ一番の空しさを感じているということができると思います。でもイエス様は空しさなど感じていません。空しさを越えて、人間の救いのために苦しみ、自らを犠牲にされました。
私は、福音を宣べ伝える働きをしてきましたが、どれほどの苦しみを味わったのかと思わされます。忍耐強く祈る、それは主の苦しみにあずかることなのかもしれませんね。終わりの日に神さまの栄光が現れること待ち望みます。
教会の礼拝に、夫婦揃ってきている人もいれば、伴侶を家に残して礼拝に来ている人もいます。N教会の礼拝に私は出席していますが、伴侶を家に残してきている人がいます。5名の方を覚えて伴侶の方が礼拝に導かれるように祈りたいと思いました。

(与えられた導き)
・数名の方を覚えて祈る。