第一コリント 2章1~5節

2020年9月4日

(内容)

  • パウロはコリントの町に行った時のことを語る。その時は、すぐれた言葉や知恵を用いなかったと語る。その理由としてイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外何も知るまいと心に決めていたからと語る。

(黙想)

  • パウロがコリントに来た時、彼自身は衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安だったと語る。このような状態では、自信をもって語ることはできない。すぐれた言葉や知恵をもって語ることはできなかった。ただ神ご自身が彼を通して語ってくださることを祈るのみであった。聖霊の導きを祈るのみであった。
  • キリストの十字架はギリシャ人には愚かなもの。ユダヤ人にはつまづきである。それでもなおキリストを宣べ伝えなければならない。ギリシャ人やユダヤ人に何とか伝えるために工夫を考えたい。しかしそれは人間のすぐれた言葉、人間の知恵の言葉を用いることである。それはパウロには体力的・精神的な状況からして無理だった。そこでただただ聖霊の導きを祈るのみであった。
  • それだけではない。キリストの十字架は人間のすぐれた言葉や知恵では伝えきれないものがあるのではないか。これを伝えるのは「霊と力の証明による」とある。言い換えるとキリストの十字架を伝えるのは、「証し」が必要ということではないか。パウロがコリントでどのような説教をしたのか分からないが、使徒言行録18:5によればユダヤ人に対して、メシアはイエスであると力強く証ししたとある。
  • パウロは自分がキリストによって遣わされたのは、「キリストの十字架が空しくならないために、言葉の知恵によらないで告げ知らせるため」と書いていた(第一コリント1:17)。
  • 1~5節の短い段落でパウロは、十字架のキリスト以外を何も知るまいと考え、十字架のキリストだけを宣べ伝えたことがわかる。キリストの歩みや教えを説き、キリストを魅力的に提示することもできたと思うが、パウロはそれをしなかった。そして神の力によって人々が信じることを期待した。それだけを期待した。これがコリントでのパウロの説教であった。このことをパウロはコリント教会の人たちに思い出して欲しかった。
  • パウロは自分が伝えるものを「神の秘められた計画」「十字架のキリスト」「神の知恵」などと語る。福音の中心は、キリストの十字架と復活である。キリストの十字架は一つの出来事であるが、この出来事の背後には世界が始まる前から定められた神の計画、神の知恵がある(2:7)。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方
  • (御父)神には秘められた計画がある。
  • (御父)神の力によって人々はキリストを信じるようになる。
☆神が私たちに求める生き方
  • (教え)福音を宣べ伝える者は、人々が神の力によって信じるようになることを願うべきである。
  • (教え)すぐれた言葉、人間的な知恵を用いないでキリストを宣べ伝えること。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神、キリストの十字架を宣べ伝えることは真に大切なことです。そのためには、人間的な知恵の言葉やすぐれた言葉は用いないとパウロは語りました。キリストの十字架は、人間の理性で理解できるものではないことを教えられます。
  • パウロは「霊と力の証明」を求めてキリストの十字架を宣べ伝えました。また聞いた者が神の力によって信じることを願いました。キリストの十字架は、人間が自分の力で、努力で信じることができるものではないことを思います。
  • パウロは神の秘められた計画、神の知恵などとキリストの十字架のことを語ります。キリストの十字架を理解するためには、神が世界を創造する前に定められた計画を知ることが大切です(2:8)。
  • 私はブログで今、キリストの福音について書いていますが、これを読む人たちが「神の力によって信じる」ことを祈りたいと思いました。ブログの読者に対して、「霊と力」が働くことを祈りたいと思いました。
☆与えられた導き
  • ブログの読者に対して神が働きかけてくださることを求める。