マルコ福音書 7章1~13節 御心から離れる
2022年5月14日
(内容)
- ファリサイ派や律法学者たちが、イエスの弟子たちが昔の人の言い伝えを守っていないと非難した。それに対してイエスは逆に彼らを偽善者と非難した。
(黙想)
- イエスは律法学者、ファリサイ派の人たちをいくつかの言葉でもって批判している。「偽善者」「神の掟を捨てている」「神の掟をないがしろにしている」「神の言葉を無にしている」。そしてイザヤ書を引用し、彼らの「心は神から離れている」と語った。
- さらに神の掟を捨てて人間の言い伝えを重んじるという本末転倒のことをしているとも批判した。イエスの批判は鋭いものがある。
- コルバンというのは神への供え物という意味。これはコルバンと言えば、それを自分のために使うことができない。本来は他者に向けて使う言葉ではなく、自分に対する言葉であった。
- 一番注目するのは、イザヤ書の引用。心が神から遠く離れている。私たちの心はどうか。信仰者として生きていても、信仰者として行動していても心は神から離れていることはないか。律法学者たちは、結局、神を利用して、自分たちは立派な信仰者であることを見せつけているし、自負している。信仰をあるいは神を自分のために利用していると言える。神から心が離れている。私たちも同じ間違いに陥る可能性は十分にある。何のための信仰なのか。自分のための信仰なら、私たちの心が神から離れていることは十分あり得る。
- 自分の心が神の心と共にあるのか、神の御心から離れているのか、どうしたら分かるのか。簡単に見分けられないだろう。信仰者の心に神に対する誠実さがまったくないとは言えない。要は、自分はどうか、である。
- 神の心から自分の心が離れていること、これは根本的な罪である。ここからさまざまな具体的な罪が生じてくる。神の心から離れないために、聖書を読む。そして神の御心に心を向ける。そして信仰の歩みをする。僕は自分なりに神の御心に心を向けている。神さまから見たらどのように見えるのかは、分からない。そして人は自分を肯定したいと考える。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>弟子たちを非難するファリサイ派や律法学者たちを批判する方
☆神が私たちに求める生き方
- <罪>神の御心から離れること
- <警告>信仰を自分のために利用すること
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、自分があなたの御心を大切にしているのか、それともおろそかにしているのか、判断はむずかしいことを思わされました。人生の主な目的は何ですかというあのウエストミンスタ小教理問答の問いを思い出します。神に栄光を帰し、永遠に神を喜ぶことです。このことに心を向けているかどうかで自分の心がどこに向いているのか分かると思いました。白と黒の間には、グレーゾーンが広がっています。自分の心はこのグレーゾーンの中にあります。神さまに心が向いていると思いますが、完璧ということはありません。ただ神さまを喜んでいることは間違いありません。
- 今、一番気になるあなたの御心は、ロシアによるウクライナ軍事侵攻です。ロシア軍により、ウクライナの市民に多くの犠牲が生じています。停戦と平和を祈っていますが、あなたの御心はどこにあるのかと考えます。今日は、あなたに祈り、あなたの御心に近づくことができたらと願います。導いてください。
☆与えられた導き
- ウクライナを覚えて祈る。