ルカ福音書 22章14~23節 イエスの願い

2024年3月5日

(内容)

  • 主の晩餐の記事である。イエスは過越の食事を弟子たちと共にしたいと切に願っていた。

(黙想)

  • 主の晩餐の記事は、マタイ、マルコにもある。基本的な内容は同じだが、それぞれ違いもある。「私の記念として行いなさい」のイエスの言葉は、マタイとマルコにはない。この記事では、弟子のことが「使徒」と書かれているのが目を惹く。ルカの場合、主の晩餐が守られるのが教会の習慣となったことを背景にしているように思える。
  • この過越の食事についてイエスはこう語った。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」。このイエスの願いは、ルカだけに書かれている。なぜ、イエスは弟子たちと過越の食事をしたいと切に願ったのか。
  • これに続いての言葉がある。16節。「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」。神の国で過越が成し遂げられるとはどういうことか。
  • そもそも過越の食事とは何か。その昔、イスラエルの民はエジプトで奴隷として苦しい状況にあった。彼らは救いを神に求めた。その時神はイスラエルの民に、家族ごとに小羊を屠って食べることを命じ、また小羊の血を家の鴨居に塗ることを命じた。
  • 神の使いがエジプト中をめぐり、家の鴨居に血が塗ってある家は、神の使いは通り過ぎたが、血が塗っていない家では、長子が死ぬという災いが起きた。この災いに恐れを感じたエジプト王は、イスラエルを解放することにした。過越とは、神の災いが通り過ぎたことを指す。
  • 神はイスラエルの民にこの救いを記憶に刻むために過越の食事を毎年行うように命じた。神による救いを記念するのである。
  • 神の国で過越が成し遂げられるとはどういうことか。過越は神による救いを示す。私たちが死の眠りから目覚めて神の国に迎えられた時、何よりも神の救いを喜ぶに違いない。その時、救いの完全な実現を見るからである。過越が成し遂げられるとは、この、救いの完全な実現を見ることと言ってよいのではないか。
  • 16節の「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」をどう理解するのか。イエスは間もなく十字架で死ぬのだから、今一度過越の食事をすることなんてありえない。なのにわざわざ過越の食事をとることはないという。どういうことか。おそらく、イエスの贖いの死による救いは、完全なものであることを主張しているのではないか。イエスは何回も十字架で死ぬ必要はない。
  • キリスト者はイエスの贖いの死による罪の赦しを信じる。では自分が将来犯す罪はどうなるのか。その赦しのために、イエスの贖いの死が再び必要になるのか。それとも信仰生活を始めたなら、これから自分が犯す罪は律法を守り自分の義で償うのか。キリストの贖いの死は、人が犯す将来の罪の赦しを含むと考える。だから一度のイエスの贖いの死で私たちは罪赦されており、神によって義とされている。
  • それではイエスはなぜ、過越の食事を使徒たちと共にしたいと切に願ったのか。
  • イエスは、三度の受難予告をすでにしているが、弟子たちは何のことかわからないでいる。過越の食事は、小羊の血によりイスラエルの民がエジプトにおける奴隷状態から解放されるという救いを想起させる。過越の食事は、イエスの死により、神の救いが成し遂げられることを暗示するゆえに、イエスは弟子たちと共に過越の食事をすることを願ったと考えることができるのではないか。この食事にはイエスの死の意味を伝えるヒントがある。だから、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(19節)との言葉も書かれている。
  • イエスは自分の死の意味を理解するヒントを弟子たちに残したかったと理解する。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>イエスは過越の食事を弟子たちとしたいと切に願った。それはイエスの死が救いをもたらすことを是非知って欲しいからと思われる。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝です。
  • 今日の箇所は聖餐に関する箇所です。「私の記念としてこのように行いなさい」との主イエスの指示通り、教会では、聖餐を祝ってきました。
  • 主イエスは主の晩餐後、捕らえられ、裁判にかけられ、十字架で処刑されます。処刑される主イエスを見た弟子たちはどうなるのでしょうか。彼らは捕らえられた主イエスを見捨てて逃げました。弟子たちは、途方に暮れるのでしょうか。
  • 主イエスは弟子たちに過越の食事の意味を思い起こし、ご自分の死が敗北の死でも、挫折の死でもないこと、救いのための死であったことを是非知って欲しかったのだと思います。
  • 私たちは主の死が、私たちの救いのための罪の贖いの死であることを知っています。そのことを思う時、キリストの救いとは何か、十分理解されていない現実を覚えます。キリストによる救いが、罪の赦しと永遠の命の付与に限定されているように思うからです。
  • 罪の赦しだけではなく、キリスト者は罪から解放されていると聖書に書かれています。でもこれを本気で信じているキリスト者は少ないように思えて残念です。
  • 主イエスによる救いのすばらしさが理解されるように祈ります。
☆与えられた導き
  • 主イエスの救いのすばらしさが理解され、宣べ伝えられるように祈る。