ローマ 5章6~8節 神の愛を知る

2023年2月14日

(内容)

  • キリストがわたしたちのために死ぬことを通して、神は私たちに対する愛を示された。

(黙想)

  • キリストが私たちのために死ぬことにより、神は私たちに対する愛を示されたとパウロは書く。キリストが死ぬことがなぜ、神の愛を示すことになるのか。
  • キリストが十字架で死ぬことは神の計画であった。父なる神は御子が人となり、十字架の死を遂げるという計画をもっていた。父なる神はなぜそのような計画を考えたのか。
  • 父なる神は、御子に十字架で死ぬ計画を打ち明け、御子はその計画を受け入れた。十字架で死ぬことをキリストは受け入れていた。それで御子キリストは十字架の死に至るまで神に従順に歩んだ。十字架で死ぬことをキリストは受け入れていた。

ガラテヤ 1:4
キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。

  • 御子がこの神の計画を受け入れるとき、私たちは御子の人間に対する愛を知ることができる。御子が自分の命を犠牲にし、そのおかげで私たちは罪が赦され、義とされる。御子はなぜ、父なる神の計画を受け入れたのか。御子には父なる神に対する従順があった。従順に歩むとき、その歩みは十字架の死となる。神である方が人となり、救い主となるのはよいが、十字架で死ぬのである。なぜ御子キリストはそのような神の計画を受け入れることができるのか。御子が人間を愛しているから。これ以外の答えはない。人間に対する御子キリストの愛がなければ、十字架の出来事は起きなかった。
  • 神が救おうとされるのは、神を信じない不敬虔な者である。正しい人間でも善人でもない。神である方が人間となり、しかも十字架の死を遂げる、それは不敬虔な者たちが救われるための死である。神である方が人となり、しかも不敬虔な者たちのために死ぬのである。なぜ御子はそこまでしなければならないのか。もし僕が御子なら、できない。神としてのプライドがある。神である者が不敬虔な者のために死ぬなんて道理に合わない。神なら、不敬虔な者を裁けばよいのである。御子が十字架に着いたとき、人々は御子を嘲り罵った。彼らは不敬虔な者である。このような者たちのために自分を犠牲にするなんて、理解できない。それが愛だというのなら、人間の思いを越える愛である。
  • 父なる神はどうか。父なる神も不敬虔な者を救おうとする。そのために御子を人としてこの世に送り、十字架の死を遂げさせる。人々は御子を敬わず、罵り侮辱する。それを父なる神は許すのである。不敬虔な者の不敬虔な振る舞いを許すのである。普通なら人間のために救い主を送ったのに、その救い主を殺すなんて、そのような人間の行為を認めることはできない。でも神はそれを許す。なぜか。人を愛しているからと使徒は語る。
  • 不敬虔な者は、救いがたい。なぜ救おうとするのか。かつて神は地上に洪水をもたらし、罪を犯す者を滅ぼした。神ならそれでいいのだ。なのになぜ、不敬虔な者のために、御子を送り、十字架に渡したのか。なぜそこまでして人を救おうとするのか。父なる神ご自身の人間に対する愛のゆえであると使徒は語る。
  • 神は神としての体面を捨てたのである。愛のゆえに自らを徹底的に低くした。愛は、相手のために自分を低くする。自分のプライドを捨てる。これは自己中心的な人間には到底できないことである。人間はこのような神の愛を理解することはむずかしい。人間の思いを越える神の愛である。
  • 神はなぜそうまでして人間を愛そうとするのか。不敬虔な人間は見捨ててよいのではないか。神は人間を愛したい。人間との交わりを持ちたい。神はご自身に似せて人間を造られた。人間を愛することは、創造の御業の中心的な目的であった。不敬虔な者を愛し、彼が神を愛するようになること、神との交わりに生きるようになることが神の願いであった。
  • このような人間に対する神の愛を人が信じ受け入れるのは、聖霊の働きによる。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>人間を愛し、人間との交わりを求める方。不敬虔な人間を見捨てないし、不敬虔な人間をもをご自身との交わりに招くためには、御子を犠牲にさえする方。
  • <御子>この父なる神の御心に対して従順に生きる方。
  • <御子>神のみ心に従うため、神であるのに人となる方。不敬虔な人間から受け入れられず、十字架で殺されることさえ受け入れる方。それは人間を愛するから。
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>自分が神に愛されていることを黙想し、味わうこと。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。聖書を読むとき、「~により、神の愛が示されたと」いう文がいくつかあります。神の愛が示されたのは事実です。しかし神の愛を私たちが知ることができるかは別です。私たちが神の愛を知り、神の愛に答える歩みをするには、神の愛を知る必要があります。今日の黙想で、私なりにあなたの愛を知ることができて感謝です。
  • さらにあなたの愛を知る人は、人間的な誇りを捨て、ただあなただけを誇る人になると信じます。使徒パウロがそうでした。人間的な誇りは、ゴミ・塵に等しいとパウロは語りました。
  • 今日は、あなたの愛を伝えたいと思いました。何回かに分けて、ブログであなたの愛を伝えたいと思います。導いてください。
☆与えられた導き
  • ブログを通して神の愛を伝える
  • 神の愛を歌う讃美歌を列挙する