詩編 139編 神の御手の中にある人生

2023年2月17日

(内容)

  • 詩人は自分が神ご自身によって造られたものであることを語る。それだけではなく、自分の人生がどのようになるのか、神は把握されていると書く。

(黙想)

  • 12~18節は、詩人は自分が神により造られた存在であることを書く。「母の胎内にわたしを組み立ててくださった」と書く。詩的な表現だと感じる。自分が神によって造られたこと、神によって自分が存在することを詩人は感謝している。
  • 「恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている」と書き、人間存在の不思議さに驚嘆している。現代の私たちが人間の肉体的構造を知るときに同じ驚嘆を覚える。そして「御業がどんなに驚くべきものか」と書く。人間は沢山存在している。人数の多さを見ると、自分の存在の小ささ、自分の存在の価値に小ささを思う。自分が存在してもしなくても、世界は変わりがない。しかし詩人は、工場で大量に生産される「もの」とは違い、自分がていねいにしかも複雑に価値ある者として造られていることを思っている。
  • さらにそのように造られた自分の生涯すべては神の御手の中にあると考えている。自分の人生に何が起こるのか、自分にはわからない。でも神はご存じである。それは神に決定づけられた人生を生きることではない。そして「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた」とあり、詩人は、神という存在を身近に感じている。
  • 「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた」との言葉が目に留まる。詩人だけでなく、私も、胎児の時から、神が目を留めてくださっていると教えられる。
  • 僕は、幼い頃に死の恐怖を覚えて生きてきた。僕の心は恐れのために傷ついた。後に神を信じるようになったとき、神に造られていることを素直には喜べなかった。心に傷があるから。しかしこれがあったから、救いを求め信仰に導かれたことは確かであり、牧師にまで導かれた。神は僕の心が傷つくことを承知していたと言える。そして僕を導こうとしておられた。死の恐怖を感じたことは、神の導きの中にあったことなのか。母の胎内にあったときから、神は僕を見ておられ、母の胎を出てからも、導いておられたと信じてよいのだろう。
  • 神の御手の中にあると言うことは、いつでもどんな時でもハッピーということではない。試練も悩みも訪れる。時には神などいるものか、と思うときもあるかも知れない。それでも、それにもかかわらず、神の愛を信じて生きるのが、キリスト信仰なのだ。神の愛は、イエス・キリストの十字架において示されている。パウロは「苦難をも誇りとする」(ローマ5:3)と書く。心傷ついたことも誇りとしてよいのか。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>私を創造し、母の胎内にある私を見ておられた方
  • <御父>私の日々をすべてご存じである。私にとって最善の人生を用意してくださる方。
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>自分の存在を神に感謝する。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。今日は、私が母の胎にある時、あなたは私をご覧になっていたとあり、私は生まれる前からあなたに覚えられる者であると教えられ、感謝です。
  • 私は幼い日に、人間の死のあることを知り、死を恐れました。私の心は恐れで傷つきました。でもこれがきっかけで信仰に導かれました。さらには牧師の働きへと導かれました。「わたしの日々はあなたの書にすべて記されている」とあるように、私のこれまでの歩みは、あなたの書に書かれているとおりの歩みであり、あなたが私に備えてくださった最善の人生を歩んでいることを信じます。
  • 詩編を見ていたら、死と直面している詩人の祈りが書かれていました。今日はこれらの詩編を拾い出し、味わってみたいと思いました。これらのことを通して、私の心の傷が癒やされることを願います。父なる神、導き癒やしてください。
    イエス・キリストの御名により祈ります。
☆与えられた導き
  • 詩篇の言葉を味わう。
    詩編18,48,55、68など