マタイ福音書 5章17~20節 ファリサイ派にまさる義

2023年8月29日

(内容)

  • あなたたちの義が、ファリサイ派や律法学者たちの義にまさらなければ、あなたがたは天の国に入ることができない。

(黙想)

  • ファリサイ派や律法学者たちについて、イエスは偽善者と批判している。つまり彼らの義は義と評価されるべきものではないことが分かる。
  • しかし彼らは律法の学びと実践には相当の努力をした人たちである。彼らは律法を守るために、日々の生活の中でどのようにすれば良いのか、細かい規則を作ったと言われる。生活の中で、こういう場合にはこのように振る舞うという規則を細かく定め、それを実践したのである。これらの努力を見れば、人々は彼らを敬うだろう。信仰深いと思うだろう。
  • しかし、律法を細かくすることにより、神の御心を見失っていく。イエスは、彼らが律法を表面的には守っているが、実質的に神の御心を行っていないと批判した。それで彼らは偽善者とイエスに批判された。彼らは、彼らなりに神の前に自分の義を積んだのである。それは誇るべき義とはなり得なかった。
  • キリスト者はどうするのか。彼らの義にまさる義を自分で積まなければならないのか。
  • 山上の説教で「義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされるとある」。義に飢え渇くとは、自分の中に義はないことを意味している。人間には、もともと誇るべき義などない。義を積み重ねることもできない。そこが出発である。イエスは、義に飢え渇く人々は幸いであると教えた。義に飢え渇く、これがファリサイ派にまさる義ということもできる。義に飢え渇く人は満たされるから。
  • 私たちは心貧しき者。心貧しきとは、霊において貧しいという意味であり、神を思うことにおいて貧しい。つまり神のことなど思わず自分のことしか考えていない。そして罪を犯している。
  • 霊において貧しい人は幸いであると言う時、神との交わりを深め、神の御心を求め、神の御心に生きようとする人になりたいと願う人々は幸いであると言われる。
  • 悲しむ人は幸いであると言う時、それは自分の罪を悲しむ人である。神から赦しを受け慰められるのである。
  • 義に飢え渇くとは、神の前に正しい人として生きることを願うこと。私たちは罪に支配されている。だから「正しい人はひとりもいない」。私たちが罪から解放されることを願い、御心に生きようとする人、それが義に飢え渇く人であり、このような人こそ、天の国にふさわしいのである。
  • 信仰によって義とされたことを感謝し、罪からの解放を願い、解放されて、御心に生きる人、その人がファリサイ派の義にまさる人と言える。
  • イエスのように神のみ心に従って生きようとする人が天の国にふさわしいのである。私たちは罪が赦されることで満足してはいけない。キリスト者として義と認められるだけでなく、罪から解放され、御心に生きていくことが大切である。キリスト者として具体的にどのように生きていくのか、山上の説教の5章21節以降で示される。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • <教え>義に飢え渇く者であること。
  • <教え>神の御心を行いたいと願い、御心を行うことを妨げる罪の力に打ち勝つよう祈り、神の助け、聖霊の助けを得て、御心に生きることが大切である。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日もディボーションを行うことができ感謝します。
  • ファリサイ派や律法学者たちの間違いは、自分たちの行いによって自分の義を立て、神に認められると考えたことでした。さらに神の戒めを細かい規則に分解し、それらを守れば神の戒めを守っていることになると理解しました。しかしそれは神の戒めの背後にある神の御心を見失います。主イエスは、彼らを偽善者と批判しました。私たちは罪を犯す者であり、義を立てることなどできない者です。
  • しかしイエス・キリストを信じ、義とされました。それゆえ、義とされた者としてふさわしく歩むことが大切となります。聖なる者を目指すことが大切と知ります。
  • 5章の21節から、ファリサイ派の義にまさる義に生きるキリスト者はどのような歩みをするのかが、語られます。
  • 聖霊の導きを祈りつつ聖書を黙想しています。しかし同時に学ぶことも大切であると考えています。歳をとり、山上の説教をディボーションする機会はこれが最後と思われます。それゆえ、ロイドジョンズの山上の説教についての教えに学びつつデボーションをしていきたいと考えます。導いてください。
☆与えられた導き
  • 山上の説教を学びつつデボーションをする。