ローマ 3章21節 神の義

2022年9月26日

(内容)

  • 今や、律法と預言者によって立証されて神の義が示された。

(黙想)

  • 神の義というと「神が義なる方」、神の性質として、神は義であり正しい方であることを意味することがある。しかしこの節の「神の義」は、神が人間に与える義を意味する。つまり神は人間の罪を赦し、その人間を義なる者、正しい者と見なすのである。
  • 今や、神が人間を義とするところの義が示されたのである。これは律法と預言者によって立証されてとある。つまり旧約聖書において、信じる者を義とする事態が生起することが預言されているということになる。

イザヤ 43:25
わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする。

エレミヤ 31:33~34
しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

ミカ 7:18~19
あなたのような神がほかにあろうか/咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に/いつまでも怒りを保たれることはない/神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ/我らの咎を抑え/すべての罪を海の深みに投げ込まれる。

  • 預言者たちは、神が御自分の民が犯した罪を赦し、その罪を思い出さないと語っている。神は民を義とするとは、書かれていないが、神は民の罪を赦し、民との交わりをもたれる。言い換えると神は民を義と見なし、御自分の交わりの相手とされるのである。
  • エレミヤは、新しい契約を神が結ぶことを語っているが、それはイエス・キリストによって信じる者と神との間に結ばれる契約であり、イエス・キリストにおいて実現している。
  • パウロは1章から3章ですべての人は皆罪を犯し、神の前に正しい人は一人もいないこと、だれもが罪を犯し、神の怒りを受ける者、神の裁きを受けるものとなっていることを語ってきた。そして今や、罪を犯した人間を赦し、イエス・キリストを信じる者を義とするとの福音が示されたのである。イエス・キリストを信じる者は、神との交わりに生きるよう招かれているのである。
  • 己の罪を知る者にとっては、誠にありがたい神の御心である。
  • パウロは、1章で「福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」と語る。罪の赦しで救いは終わりではない。救いをもたらす神の力とはどのようなものなのか、何を目指すものなのか、これを学ぶことが大切となる。そしてパウロはこれを語っていく。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>神はイエス・キリストを信じる者を義とする方であることを示された。
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>神により、罪赦された、義とされた者として歩む。福音が神の力であることを信じ、神がキリスト者に与えようとする神の救いが何か、心を開いてローマ書から学ぶこと。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神、罪を赦し、私たちを義とし、あなたの罪を思い出さないと言ってくださること、感謝です。それゆえ、罪を犯さないように、あなたの助けを求める者です。あなたの助けを信じて歩みます。
  • アウグスティヌスは、あなたの助けは人間の意志の強化にあると語っています。以前は罪の力に負けることが多かったですが、聖霊の導きにより、あなたの御心に歩みたいとの思いが強化され、御心に歩むことができるようになったことを感謝しています。福音は神の力である、このことをもっと深く知りたいです。導いてください。ローマ書のデボーションを楽しみにしています。
  • この数日来、思いめぐらしていることがあります。パウロが「罪に対して死んだ私たち」と語っていることです。これはローマ書の6章に出てくる言葉ですが、この言葉の意味を確認したいと思います。さらに黙想したいと思います。
☆与えられた導き
  • 「罪に対して死んだ私たち」を黙想する