ローマ 1章18~23節(2)神を崇めて生きる

2022年7月8日

(内容)

  • 人間、自分は知恵があると吹聴しながら愚かとなり、神を崇めず、偶像礼拝に陥っている。

(黙想)

  • 18節で真理を妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して神は天から怒りを現されるとあった。その理由として、人は神を知りうる立場にあること、それなのに神を神と崇めず感謝しないとあった。
  • ここではそのような人間は何をするのか、つまり偶像礼拝をすることが書かれている。偶像礼拝こそ、神の怒りの対象である。神を神と崇めず、感謝しない態度は、必ず偶像礼拝に帰着する。
  • パウロが問題にする罪、聖書が問題にする罪の第一は、不道徳な行為でもなく、非倫理的な行為でもなく、神に対する罪である。神を崇めず感謝せず、偶像礼拝をする罪である。
  • これはクリスチャンにも該当する。あなたは私を誰というかとイエスはペトロに尋ね、ペトロがあなたはメシアですと答えたことがある。そのペトロに対して、イエスは受難を予告した。するとペトロはイエスをいさめたとある。その時、イエスはペトロに「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われた。このイエスの言葉は警告として、信仰者である我々に常に向けられている。信仰者として生きようと考え、行動していても、私たちも神のことを思わず、人間のことを思っていることがある。これは神をないがしろにする罪である。
  • 現代の人は、鳥や獣の像を造ってこれを拝むことはしないかも知れない。しかし富や権力あるいはおのれのプライドを第一にして生きている人は多く、神ならぬものを崇めている。また自分を神とし、自分の思い通りに生きようとしている人も少なくない。自分に自信がない人は、神ならぬものに神頼みしている。
  • クリスチャンといえども神よりも自分を第一にすることがないとは言えない。神を誇ることよりも自分を誇ることを大切にする人だっている。祈りにおいて、神のことを思って祈っているのか、ただただ自分の思いで祈っていることもある。
  • 人間の犯す罪の第一は、神を神としないこと。そして神を信じる者こそ、この罪を犯しているかどうか、顧みなければならない。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>私たちが崇めるべきお方
☆神が私たちに求める生き方
  • <警告>神を神としないこと。神を崇めないこと

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日の聖書箇所は、クリスチャンにも問いかける重要な箇所だと思います。あなたを信じると言いながら、自分の思いで生きている人がいますし、自分だってそのように生きている時があります。そうならないために、礼拝で説教を聞き、日々聖書を読み、あなたを神として崇めて歩んでいきたいと思いますし、また歩みます。
  • しばらく前から、主イエスの「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」との言葉が心に残っています。神のことを思わず、人間のことを思う、これも偶像礼拝だと考えます。人間は、自分中心的になり、自分を第一にして生きようとします。自分を第一とは、自分を神とすることですね。このような罪から離れます。
  • 昨日、『神はなぜ戦争をお許しになるのか』(M.L.ジョンズ)の本を読みました。ロシアがウクライナに軍事侵攻したことに関連して祈っていますが、自分の祈りは、あなたのことを思っての祈りなのか、人間のことを思っての祈りなのか、と考えさせられています。あなたのことを思う時、どのように祈ったらよいのかと考えています。今日はこのことについて思いめぐらし、み心にかなう祈りができるようにしたいと思います。導いてください。
☆与えられ得た導き
  • ロシアのウクライナ軍事侵攻に関連しての祈りを思いめぐらす。

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  • ロシアのウクライナ軍事侵攻をめぐって祈っている。戦争が終わり、ウクライナに平和が戻るようにと祈っているが、戦争は続いており、いつ終わるか、分からない。祈りは神に届いているのか、と思う。時に、なぜ聞いてくださらないか、神の御心はどこにあるのかと思う。
  • 主イエスは弟子のペトロに「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われた。僕の祈りは、神のことを思わず、人間のことを思っての祈りかもしれない。
  • 神さまはロシアのウクライナ侵攻を見て思うかも知れない。人間なぜ罪を悔い改めないのか。自分の力で生きていけると思っているのか、と。人間の罪は時に悲惨な結果を生み出す。第二次世界大戦の時、ヒトラーは多数のユダヤ人を虐殺した。今回ロシアのプーチンはウクライナの街々を破壊し、そこに住む人間の命を奪っている。隣国を愛さず、隣人を愛さず、隣国の主権、隣人の人権無視の罪を犯し続けている。罪は人の命を奪う。
  • 西側諸国がロシアに制裁を加えているが、それは「目には目を歯には歯を」の対応ということができる。敵意という隔ての壁をいよいよ厚く、高くしている。しかし制裁という対応は人間的な対応としては、理解できるし自然に思える。しかし解決にはほど遠い。
  • 神さまは人間が罪を悔い改めることを求めている。イエス・キリストだけが敵意という隔ての壁を壊すことができる(エフェソの信徒への手紙)。イエス・キリストだけが平和を生み出すことができる。
  • 神さまは私たちが平和に生きる道を提供してくださった。しかし人間はその道を歩もうとしない。それに気づけと神さまは言っているかもしれない。人間が気づくまで、神さまは人間のするがままにしているのかもしれない。
  • 私たちは、神さまにウクライナに平和をもたらしてくれるように要求する権利はない。人間の罪がもたらした結果の後始末を神さまに要求することはできない。人間にできることは、神の憐れみにすがることである。神はなぜ、祈りを聞いてくださらないのかという思いは、人間の傲慢な思いである。

祈り

  • 天の父なる神さま。人間の罪は時に大きな悲惨な結果をもたらします。あなたは平和に生きる道を用意してくださっています。しかし人間は自分の知恵に頼る道を歩んでいます。諸国家がキリスト教的な判断をすることはむずかしいので、人間的な知恵によって平和を求めるのは、仕方のないことです。でもそこには限界のあることを知らされます。
  • 天の父なる神さま。あなたの憐れみにすがります。戦争を終わらせ、ウクライナに平和をもたらしてください。
  • そして世界中の教会の福音宣教の働きを強めてください。教会がキリストを宣べ伝え、平和の道を伝えなければ、人類は平和を得ることができません。教会の働きが切に求められています。教会の働きを導いてください。教会の働きの重要さに信仰者を目覚めさせてください。
  • イエス・キリストの御名により祈ります。