ローマ 1章7節(1) 聖なる者

2022年5月31日

(内容)

  • 私たちは神に愛され、召されて聖なる者とされている。

(黙想)

  • ここでも「召されて」との言葉がある。私たちは神に呼びかけられている。つまり聖なる者として生きるように呼びかけられている。信仰者とは神に呼びかけられ、その呼びかけに答えて生きる者である。6節では、イエス・キリストのものとなるように召されたとある。つまりイエス・キリストのものとして生きるようにとの神の呼びかけに答えて生きるのが信仰者である。
  • それゆえ、神の呼びかけに答えて自分は生きているのかという問いが生まれる。これは常に自分に問うべき問いでもある。人は自分の呼びかけに神が答えることを願う誘惑にさらされている。
  • 7節では、「召されて聖なる者となった」とある。新約聖書を読むと「聖なる者」とはイエス・キリストを信じる者を指す呼び名である。私たちにはキリスト者とか、クリスチャンとか信仰者を指す呼び名がある。呼び名であるゆえに、それがどのような意味を持っているのか、探ることをあまりしない。新約聖書の時代は、「聖なる者」が信仰者の呼び名だった。なぜ「聖なる者」という言葉が使われたのか。聖なる者ということで信仰者のことをどう考えていたのか、きちんと知る必要がある。
  • 自分自身を振り返り、「聖なる者」とは言えない、などと私たちは思ったりする。「聖なる者」と聞いて、聖なる者についてのイメージを自分で作り、自分は当てはまらないと考えてしまうのである。しかし新約聖書から教えられることは、私たちイエス・キリストを信じる者は、聖なる者であることである。
  • あのコリント教会の信徒たちのことをパウロは聖なる者と呼ぶ。しかし彼らは色々問題のある信徒だった。しかし聖なる者とパウロは呼んだ。聖なる者とは何か。
  • 旧約聖書を読むと「聖別」という言葉が出てくる。あるものを聖別すると、それは神のものになるとの意味になる。神に属するもの、そして神のために用いられるものになることを意味する。モーセの指導でイスラエルの民が幕屋を造り、神への礼拝に用いるさまざまなものが作られたが、それらは聖別されて、神のために用いられた。神に属し、神のために用いられる、それが聖なるものの意味である。
  • イスラエルの民は、神の民であり、神に属するもの、聖なる民であった。それゆえ、神の民としてふさわしく生きることが求められた。「私が聖なる者であるように、あなたがは聖なる者となりなさい」と神は言われた。聖なる者とは、神の呼びかけに答えて生きる者であり、神に属する者としてふさわしく生きようとする者のことである。道徳的、倫理的に立派に生きることではなく、悪しき思いのない心を持つようなことでもない。聖人と呼ばれるような人になることでもない。
  • 「聖なる者」について、信仰者が持つイメージを壊し、聖書が教える聖なる者について正しく理解することは大切だ。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>私たちを愛する方。私たちを聖なる者とする方。私たちに聖なる者として生きるように呼びかける方。
☆神が求める私たちの生き方
  • <勧め>神の呼びかけに答えて、聖なる者として生きる。
  • <教え>聖なるものとは、聖人になることではなく、神の呼びかけに生きることである。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、あなたは私を聖なる者としてくださったことを感謝します。聖なる者とは、神に属する者、イエス・キリストのものとして生きる人を指すと理解します。そのように生きよ、と呼びかけるあなたの呼びかけに答える人が聖なる者であると理解します。
  • そして大切なことは、あなたは私を聖なる者としてくださったことです。まずこのことを信じます。自分の努力で聖なる者になるのではなく、あなたが私を聖なる者としてくださいました。だから、私は聖なる者として生きることができるようにされていると信じます。
  • そして私たちには、自分の人生は自分の思い通りに生きていきたいという欲求があります。神に属する聖なる者として生きるより、自分の思い通り、願い通りに生きたいとの思い、自我があります。あなたこそ、私の呼びかけに答えて欲しいという自分中心の思いがあります。ここに心の中の戦いが生じます。神の呼びかけに答えて生きようとの思いと、自分の思い通りに生きたいとの思いの戦いです。
  • 自分の思い通りに生きたいとの思いは強いので、私たちは自分を顧みなければなりません。自分は本当のところ、どう生きたいのか、です。信仰者にされたので、神の呼びかけに答えて生きていきたいのか、否か。神の呼びかけに答えて生きていきたいと欲し、あなたに助けを求めるなら、あなたは必ず助けてくださると信じます。
  • 私の願いは、すべてのクリスチャンが自分は聖なるものであると確信し、聖なる者として生きていくことです。「聖なる者」をテーマとしてブログに書き、聖なる者として生きるように勧めの言葉を書きたいと思います。導いてください。
☆与えられた導き
  • 「聖なる者」をテーマとしてブログに書く。