マタイ福音書 7章21~23節 天の父の御心を行う

2022年2月9日

(内容)

  • 主の名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行っても天の国に入れるとは限らない。天の父の御心を行う者だけが入ることができる。

(黙想)

  • 主の名によって、預言したり、奇跡を行ったり悪霊を追い出すことは天の父の御心を行うことになるとイエスは考えていないようである。しかしイエス自身、このようなことを行ったし、イエスが遣わした使徒たちもこのようなことを行っている。
  • 主の名を用いる人は信仰者である。でもしるしとされるようなことを主の名によって行うことは天の父の御心ではないという。確かに悪霊追い出し、奇跡、預言などは私たちの日常の生活で行うことではない。この山上の説教でイエスは天の父の御心を語ってきた。それは私たちの日々の生活の中で行うことである。
  • 天の父の御心を行う者だけが天の国に入るとのイエスの教えは、歪められる可能性がある。私たちは信仰によって義とされるとの教えがある。私たちは神の戒めに従うことによって救われるのではない。イエス・キリストの十字架のあがないの業を信じることによって救われると教えられる。
  • この箇所は天の父の御心を行う者だけが天の国に入ることができる、すなわち救われると語っているように見える。でもこの箇所は救いの条件を語っているわけではない。救われたキリスト者に向かっていかに生きるかを語る箇所である。イエスを信じたキリスト者に向かって語られている。天の国には入れないとの教えは警告と受け取るのがよい。天の父の御心を行うことを真剣に考えるように教えられる。
  • 天の父の御心を考えるときに気をつけなければならないことがある。一つは律法主義に陥ること。神の教えは守らなければならない、守るべきであると考えるのは律法主義である。守れないと自分を責めることがある。守れると高慢になる可能性がある。律法学者たちのように。
  • 今ひとつは教えから逃げること。私たちは教えの実行によって救われるわけではないと考え、御心を行うことから逃げる。天の父の御心に逆らった罪を赦してください。御心を行えなかった罪を赦してくださいと罪の赦しに逃げてしまう過ちを犯す。結果的に御心を行わない。
  • 天の父の御心を真剣に行う道は狭い門から入る道である。福音に生きる道である。聖霊の助けを求める道である。キリストを信じ新生し、聖霊の助けを得て、天の父の御心を喜んで行う道である。
  • 言い換えるとイエス・キリストを信じ、神の子とされていることを喜び、神の子として生きていこうとすることである。
  • では僕自身は天の父の御心を行ってきたのか。御心を行うことを心がけて生きてきたつもりである。もちろん完璧ではない。聖霊の助けを得、神の憐れみによって導かれて生きてきたと言える。天の父の御心を行う歩みは、天に召される前まで続く。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • <教え>天の父の御心を行って天の国に迎えられるようにする。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。キリスト者として長年生活し、御心を行うことを心がけてきた者として、天の国に入ることが約束されていることを感謝をもって受けとめます。老いを生きる者としては、いつあなたに召されてもおかしくない状態にあります。私は天の国を約束されていると考えることは大きな慰めであり、励ましです。
  • 今日はあなたに感謝をささげ、讃美歌461番をもってあなたを賛美します。
☆与えら得た導き
  • 感謝と賛美を献げる。

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讃美歌461番
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御国の門を開きて我を
招きたまえり、勇みてのぼらん

わが君イエスよ、我を清めて
良き働きをなさしめたまえ

わが主イエス わが主イエス
わが主イエス 我を愛す