マルコ福音書 5章21~43節 ただ信じなさい

2022年1月25日

(内容)

  • 会堂長のヤイロがイエスのもとに来て、幼い娘が死にそうなので、来て娘に手をおいてくださいと願う。しかし娘が亡くなったとの知らせが届く。しかしイエス「ただ信じなさい」と告げ、ヤイロの家に向かう。

(黙想)

  • 会堂長は、イエスが手をおけば娘は助かると信じていた。だからイエスのもとに助けを求めてきたし、手をおいてくれれば娘は助かるとの信仰を告白した。
  • しかし娘が亡くなったとの知らせが届く。生きていれば助かるのに死んでしまえば助かることはない。ヤイロは落胆したことと思う。イエスが死んだ娘を生き返らせることなど考えもしなかったと思う。そもそも死んだ人が生き返るなんて聞いたことがない。
  • しかしイエスは「恐れることはない。ただ信じなさい」と語る。「ただ信じなさい」。「ただ信じる」のは簡単なことではない。これは理屈をこねないでただ信じなさいということなのか。そのようにも聞こえる。でもそうではないと思う。聖書にはイエスの復活の話が書かれている。礼拝に来ている未信者の人に「ただ信じなさい」と言っても信じることができるものではない。そう言われても困るだろう。
  • 信仰者の場合「ただ信じなさい」と言われてどう反応するのか。一つは、いくら何でもそう言われても信じられないと反応するのか。あるいは信じたいけれど信じられないと反応をするのか。あるいは分かりました、信じますと反応するのか。信仰とは、自分が信じることができるかどうかではなく、イエス様に信頼するかどうか、である。信じたいけれど信じられないというのは、自分にこだわり、イエス様に信頼することを拒んでいるのである。
  • 人は、時にこれを信じるかどうか、と信仰を迫られる時を迎える。その時どうするか、である。人は自問自答する。しかし自問自答はやめてイエスが語る「ただ信じなさい」を聞こう。
  • 「ただ信じなさい」とのイエスの言葉には、「信じていいんだよ、信じて大丈夫なんだよ」とのイエスの励ましが含まれていると考える。私たちが信じる時、そこにはイエスの人格への信頼がある。会堂長のヤイロはイエスが自分の家に向かうのをとめない。娘は死んだのだからもういいです、とは言わない。「ただ信じなさい」と言われて彼がどう思ったのかは分からないが、彼はイエスにゆだねた。
  • 老いを生きるとは不安なことでもある。不安にさいなまれたら、自分で自分を救うことはできない。キリスト者の場合は、神にゆだねる道が与えられている。人によっては「信じ切れない」自分に直面する。老いの不安にどう対処するのか。
  • 一つの解決の道は、自分をどう理解するのか。神を信じる自分。十字架のイエスによって救われた自分。神の子とされた自分。罪を赦された自分。無前提の自分ではなく、このような自分として信じることができるのかどうかを考えるのも一つの道だと思う。
  • 神の子とされた自分として、「ただ信じなさい」「神にゆだねなさい」「ゆだねていいんだよ」とのイエスの声が聞こえるような気がする。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>ただ信じなさいと語る方。
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>イエスに信頼し、ゆだねること。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神、今日も聖書を思いめぐらすことができて感謝します。会堂長ヤイロはイエス様に娘の助けを求めました。幸いなことにイエス様はヤイロの家に一緒に行くこととなりました。しかし「娘はなくなった」との知らせが届きました。するとイエス様は「恐れるな、ただ信じなさい」と言われました。娘は助かる、信じなさいと言われました。しかし娘は死んだとの報告が来たのです。イエス様から「ただ信じなさい」と言われてもすぐに、死んだ娘が助かる、つまり生き返るとは思えなかったと思います。でもイエス様がヤイロの家に行こうとしているので、ヤイロは無駄なことはしないでくださいとは言わず、成り行きに任せたことと思います。そしてイエス様は娘を生き返られました。
  • イエス様の「ただ信じなさい」は、信じていいのだよ、信じて大丈夫なのだよとの励ましの響きを感じます。
  • 老いを生きる者として、心は揺れ動き、信仰を試されるときがあります。自分で自分を励ますのにも限界があります。あらためて信仰はゆだねること、自分を明け渡して信頼することであると思います。私も老いの中にあって、あなたに、イエス様に信頼して歩んでいきます。励まし慰めてください。老いはゆだね、明け渡すことを学ぶときなのですね。そうします。
☆与えられた導き
  • 自分を明け渡し、ゆだねますと神さまに告白する。この告白をしばらく続ける。