第二コリント 13章1~4節(1) 信じる証拠

2022年2月3日

(内容)

  • コリント教会の人たちが、キリストがパウロを通して語っているとの証拠を求めていることに対してパウロは強い口調で容赦しないと語る。

(黙想)

  • パウロを通してキリストが語っているという証拠を求めることはできない。そのような証拠を示すこともできない。パウロの語ることを聞いて、キリストが語っていると判断するか否か、信じるか否か、それは聞く者にかかっている。
  • イエスはこう語った。

「わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである」(ヨハネ8:46~47)。

  • 人はどう聞くかによって自分がどのような人間であるかを明らかにする。イエスの言葉を聞いてもイエスを信じない者は神に属していないことが明らかになる。
  • 証拠を求めるコリント教会に対してパウロは、自分は「キリストに結ばれた者」「キリストと共に生きている」と語る。10章からパウロは、自分が使徒であることを証しする文章を書いてきた。それはまさにパウロが、キリストに結ばれた者であり、キリストと共に生きている者であることを語るものである。これらを読んでコリント教会の人たちはどう判断するのか。
  • それで今度コリントに行ったときは「容赦しない」との強い言葉が出てくる。コリント教会の人たちは、パウロが三度目の訪問をしたとき、問われる。パウロがキリストの使徒であると信じるのか、信じないのか。信じなければ彼らはキリストの教会の信仰者ではない。
  • イエスも人々から神から遣わされているなら、しるしを見せよと言われたことがあった。

マタイ12:38
すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。

  • するとイエスは、

マタ 12:39
イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。

  • 証拠を求める、しるしを求めるのは信仰的な態度ではない。信仰とは、神と私たちの人格的な交わりであり、信頼するかどうか、相手を見て信頼するかどうかである。信じてもらう側は信じてもらえるようにそれなりの対応をする。イエスはすでにしるしを見せたのである。だから人々は信じるか信じないか決断が問われる。
  • 時に人は「信じ切れない」と言う。そして信仰の行動に踏み切ることができないのである。信じて行動すれば、信じて大丈夫なのかどうかわかるから、一度踏み切ればよいと思う。僕はそうやって信じてきた。しかし試せないことがある。死後の希望である。これは神にゆだねることとなる。
  • 信仰は人格的信頼である。神は真実な方であると聖書は語っている。信仰とは、神が真実な方であると信じることにある。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • <教え>信仰において証拠を求めることはできない。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、コリント教会の人たちは、パウロを通してキリストが語っている証拠をパウロに求めました。パウロは、自分はキリストに結ばれ、キリストと共に生きていると語り、手紙を書きました。コリント教会の人たちはパウロの手紙を読んでどう判断するか、です。このような手紙を書く人は、キリストに結ばれた人であるのか否か、どう判断するか、です。
  • イエス様も人々がしるしを求めたときにしるしを行いませんでした。すでにイエス様はしるしを行いました。それを見て人々はどう判断するかです。しるしを求めるのは証拠を求めることであり、イエス様はこれを拒まれました。
  • 私たちは時に、信じきれないと言い、信じることに踏み切れないことがあります。だから信仰の根本は、聖書に証しされている神であるあなたが真実な方であると信じることにあるのですね。あなたを真実と信じるのか、信じ切れないながらも信じたいと迷いつつ生きるのか。それは自分の決断ですね。でも求めるなら、あなたは聖霊の導きにより迷う信仰を確かな信仰にされると信じます。
  • 迷うところが私にもあるので、確かな信仰とされることを願い、聖霊の導きを求めます。
☆与えら得た導き
  • 聖霊の導きを祈る