第二コリント 7章2~4節 神に信頼される私たち

2021年9月23日

(内容)

  • パウロはコリント教会に「私たちに心を開いてください」と語ります。パウロ及びパウロと共にキリストを宣べ伝える者たちは、真にキリストの使徒であることを分かって欲しいとの願いです。

(黙想)

  • パウロは2章14節から、自分たちが使徒としてキリストを宣べ伝えていることを、福音をどのように理解しているのか、また自分たちはどのように行動してきたのかを語り、使徒として認めるか否かの判断をコリント教会にゆだねている。そして心を開いてと願っている。
  • この段落では、コリントの人たちに対する思いを語っている。「あなた方を責めるつもりで語っているのではない」と書く。自分の思いを知って欲しいとのパウロの気持ちが伝わる。責めるなら、なぜ、私の気持ちを分かってくれないのか、となる。パウロは自分の気持ちを告げて判断はゆだねるのである。だから責めるつもりはないという。人は自分について何か言われると、責められていると受け取ることが多い。語る方にそのつもりがなくても受取手はそう思うことが少なくない。だからパウロは率直に「責めるつもりはない」と語る。
  • コリントの人たちはパウロたちの心の中にいて、パウロたちと生死を共にしているという。大げさな表現ではある。生死を共にしていると言っても、パウロはコリントから離れて別の地でキリストを宣べ伝えている。パウロはコリント教会の人たちの信仰を本当に心配している。パウロの後に来た「教師」によってコリント教会の人たちの信仰が揺らぐなら、パウロは心を痛めるのである。パウロにとってコリント教会は分身のようなものである。コリント教会の人たちはそうは思わなくても、パウロたちはコリント教会と一つなのである。それを生死を共にしていると表現している。
  • 僕は牧師の働きを引退した。最後に牧会した教会は後任の牧師が牧会をしている。僕は後任の牧師に後のことを託したので、パウロのような教会との一体感は持っていない。自分が牧会した教会の祝福を神さまに祈っている。パウロの場合は、後任の牧会者はいない。教会の歩みは神にゆだねるしかない。時々教会の様子は聞こえてくるので、気がかりになることが多い。
  • パウロはコリント教会に対して厚い信頼を寄せており、また誇りに思っているという。これは驚く。第一コリントを読めば、コリントの人たちの信仰には問題のあることが分かる。だからパウロは忠告の手紙を書いている。第二コリントの2章14節から7章の4節までは、パウロが使徒として神に仕えていることを訴えており、パウロの使徒性を疑うコリントの人たちに信じて欲しいと書いているのである。通常の見方からすれば、コリントの人たちは偽教師たちに惑わされて自分たち使徒であることを疑うなんてまだまだ未熟な信徒たちだな、とか、どうして疑うのか、と不審を抱いても不思議ではない。信頼することも誇ることもできない相手に対して、あなたがたを信頼し、誇っているというのは、簡単に言える言葉ではない。相手が自分の考える基準に達しているなら喜ぶし、そうでなければ批判的に見たり、落胆したりする。それが普通というか、人間的である。
  • パウロにはそういう人間くささが全くない。言い換えると「無条件」にコリント教会を、信仰者たちを愛していると言える。そして信頼し、誇っているという。それは神の愛にも似た無条件の愛である。信頼し、誇りに思っているとの言葉には、期待が込められている。少しでも信頼できる教会となるように、誇りに思うことができる教会になるようにとの期待。
  • この期待を神様は私たちに対して持っていると考えることもできる。私たちは自分のことを大した者とは思っていないし、大した働きもできていないと思っているかも知れない。しかしそうではない。あなたに信頼し、あなたを誇ると神は言われ、私たちの歩みに期待していると考えることができる。パウロはコリント教会にそうしている。
  • パウロは、たとい苦難のときも慰めと喜びに満たされているという。それはパウロが神の愛を知り、神の愛を身をもって現し、コリント教会を愛しているからであろう。神に愛されていることを知る者には慰めと喜びがいつもある。神さまは、私に信頼を寄せ、私を誇りにしておられる。それを知るとき、私は慰めと喜びに満たされる。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>神は、私たちに信頼を寄せ、私たちを誇りに思ってくださる方である。私たちに期待される方である。
☆神が私たちに求める生き方
  • <模範>パウロのコリント教会に対する愛、教会員に対する愛は模範である。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、パウロのコリント教会に対する思いに驚きます。私たちの常識を越えた思いです。言い換えると神さまの愛を体現しているように思えます。そのパウロは慰めと喜びに満たされています。私たちが自分のことに終始している時は、慰めや喜びは私たちにとって、遠いものになってしまいます。しかし、神に愛され、神の愛を身を持って体現する者には、慰めと喜びがあふれるとの言葉には、真理があると思います。
  • 天の父なる神さま、パウロがあなたの愛を体現しているなら、あなたは私に信頼を寄せ、私を誇りに思ってくださることになります。このことを私は信じることにします。あなたは私の働きに信頼を寄せ、私を誇りに思ってくださることを信じます。そうすれば迷うことなく、自分に与えられた働きをよろこんですることができます。感謝です。今日はこの喜びを抱きつつ、ブログを書くことにします。
☆与えられた導き
  • 喜びをもってブログを書く