第二コリント 1章15~22節 常に真実であれ

2021年6月1日

(内容)

  •  パウロはコリント教会訪問計画を立てたが、それを実行できなかったようである。この変更はパウロの不実を示すものではないと語る。

(黙想)

  • パウロはコリント訪問計画を立て、それをコリント教会に伝えていた。しかし実行できなかったようである。第一コリント16:5以下にコリント教会訪問計画をパウロは語っている。それによるとパウロは今エフェソにいる。エフェソを出発し、マケドニア州を通ってコリントに行くという。パウロは第二次伝道旅行の時コリントに一年半滞在して教会を設立した。今、第三次伝道旅行でエフェソにいて、コリントに行きたいと考えている。エフェソに来てまもなくパウロはコリント教会に手紙を書いた。コリントの信徒への手紙一。この手紙の最後にコリント訪問計画を書いた。
  • コリントに教会を設立しパウロがコリントを去った後、コリント教会に「教師」と呼ばれる人たちがやってきて、コリント教会に影響を与えた。この人たちはパウロの使徒としての権威を否定したようである。そして彼らの福音理解はパウロからすれば、歪んでいるものであった。これにパウロは対処しなければならない。自分に対して好意的でなくなったコリント教会に訪問することをためらうのも理解できる。会って話をすれば解決できるとは限らない。実際、エフェソ滞在中にコリントを訪問したが、かえってパウロと教会の関係は悪くなった。
  • 今、手紙のこの部分を書いているパウロは、コリント教会との関係を回復できている。だから以前コリント訪問計画を立てたが実行できなかったことを振り返っている。コリント教会の人たちは、パウロが訪問を計画したのに実行できなかったことについて、パウロを悪く思ったかも知れない。コリント教会に来た「教師」たちがパウロの使徒性を否定したとき、旅行計画の不実行はコリント教会の人たちのパウロへの信頼を失わせたかもしれない。
  • しかし今パウロとコリント教会の関係は回復している。だからパウロは以前の訪問計画を実行できなかった事情を語っている。
  • 17節。「このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしにとって「然り、然り」が同時に「否、否」となるのでしょうか」。
  • まずパウロは、軽はずみな計画を立てたわけではない語る。もし軽率に立てた計画なら、簡単に変更されることがある。軽はずみな計画なら計画の変更は当然ありうるし、変更は仕方がないと考えることができる。「然り」が同時に「否」となるのである。
  • 次にパウロの訪問計画は人間的な考えに基づくものではないとする。人間の考えに基づく計画なら、別の考えによって計画を変更することもある。計画の変更はありうることだし、変更は仕方がないということもできる。「然り」が同時に「否」となる。
  • 自分の態度を豹変させても自分を正当化する態度を「然り」を同時に「否」とすることとパウロは語っている。あるいは二枚舌を使うことを「然り」を同時に「否」とすることと言っている。
  • 18節。神は真実な方であるとパウロは語り、続けてパウロが訪問計画を変更したことは、いい加減なことではないという。パウロが立ててた訪問計画は、「然り」が「同時に「否」となるようないい加減なものではないとする。パウロの訪問計画は神の御心であること、そして変更があるとすればそれも神の御心によるとパウロは考えている。神は真実な方であり、訪問計画の変更は神の御心によるものと受けとめるべきであると語る。
  • 19~20節。イエス・キリストにおいては、「然り」だけが実現したという。神の約束はイエス・キリストにおいて「然り」となった。神さまは約束を語り、その約束を違えることはない。神さまは真実である(18節)。イエス・キリストにおいて、神の救いの約束は実現した。それでパウロは神をたたえるという。
  • パウロたちは神さまの御心に従って行動しているのであり、訪問の約束が変更になったとしても、それはいい加減な態度のよるものではないことを伝えている。
  • 21節。神はパウロたちとコリント教会の人たちをキリストに結びつけた。神は私たちに油を注いだとパウロは語る。油を注ぐとはどういう意味か。
  • メシアとは、油注がれたものという意味であり、イエスは油注がれた者であると聖書は書く。

ルカ 4:18
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、

  • さらにヨハネ1:41、使徒言行録使 4:27、、使徒言行録 10:38。
  • 信仰者についても油が注がれたとする聖句がある。

 コリント二 1:21
わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。

ここでは油を注ぐとは、聖霊を与えることであり、その結果として、信仰者とキリストとの結びつきをは確かになったとする。

ヨハネ一 2:20
しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。

ヨハネ一 2:27
しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。

  • ヨハネの手紙は、油は聖霊を指し、聖霊は真理を知らせる働きをし、また信仰者に教える働きをすると書く。
  • 22節。「保証」とあるのは、何の保証か。「わたしたちに証印を押して」とあるが、この「わたしたち」はパウロたちなのか、コリント教会の人たちも含めるのか。含めないとこの証印は、パウロたちだけのものとなる。パウロたちはキリストを宣べ伝えるよう召しを受けた者である。この点はコリント教会の信仰者とは違う。
  • パウロが約束通りの訪問をしなかったことに対して、訪問の変更はいい加減な理由によるものではないことを語る文脈の中にあって22節はどのような意味なのか。聖霊を与えられているパウロたちは、神が真実な方であるように、自分たちも真実であると語っているのか。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>神は真実な方である
  • <御父>神は私たちに油を注ぎ、キリストの結びつけてくださる方
  • <御父>わたしたちに証印を押し、保証として霊を与えてくださる方
☆神が私たちに求める生き方
  • <教え>私たちは自分が語る言葉に対して真実であり責任を持つこと。言い訳をしたり二枚舌を使ったりしないこと。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、パウロはコリント訪問計画を変更したことについて、コリント教会から、パウロはいい加減な計画を立てたと誠実さを疑われました。パウロは、計画の変更には理由があることを告げ、いい加減ではないことを弁明しています。
  • 私たちは自分が語る言葉に対して真実であり責任を持つべきであり、言い訳をしたり二枚舌を使うことは罪であると知ります。私は自分が語るどの言葉に対して責任を持ち、語った言通りに行動すべきかを考えます。また言い訳をしたようなことが最近あったかどうかを顧みます。それはないと思います。今の私は、こうしてデボーションをし、神さまの導きとして与えられたことをきちんと実行していくことが大切であり、実行するように戒められたように思います。
  • 天の父なる神さま、あなたはわたしたちに油を注ぎ、キリストに固く結びつけてくださる方です。私は洗礼を受け、聖霊によりキリストに結び合わされていると信じています。感謝です。22節で、神は、わたしたちに証印を押して、保証として私たちの心に霊を与えてくださったとあります。似た表現が聖書の他の箇所にもあります。それらの箇所を参考にしながら、22節が何を意味しているのか、明らかにしたいと思います。
  • 今日の聖書箇所のディボーションの結果として、22節の意味を明らかにすることを今日の適用とします。
☆与えられた導き
  • 22節の意味を調べる。