第一コリント 12章1~11節 イエスを主とする

2020年12月25日

(内容)

  • パウロは霊の賜物について語る。おそらくコリント教会で霊の賜物をめぐって混乱があったと思われる。個人的に霊の賜物が与えられるのは、賜物を与えられたことを誇るためではなく、全体の益となることをわきまえること。

(黙想)

  • 1節で「ぜひ知っておいてほしい」と語る。何を知って欲しいのか。第一に聖霊によらなければだれも「イエスは主である」とは言えないこと。第二に一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためであること。個人的に霊の賜物が与えられるのは、賜物を与えられたことを誇るためではなく、全体の益となることをわきまえること。
  • 霊の賜物は、それが与えられるとそのことを誇りに思いたくなるし、与えられないことにひけめを覚えたりする。霊の賜物をめぐって優越感や劣等感が生じたりする。昔、異言を語る教会の牧師から、異言を語らない教会は霊的に冷めている教会と言われたことがある。僕が牧会している教会は異言を語ることは考えていない。パウロはどのような霊的賜物であれ、それは全体の益のためであることを弁えるようにと教える。個人的に誇るものではない。
  • 8節以下に色々な霊的賜物の紹介がなされている。これらの賜物に関しては、今もこれらを求める人々がいる。他方でこれは初代教会の時代に信仰者に与えられたもので今は与えられないとする考える人たちもいる。パウロは13節で、どのような賜物を与えられても愛がなければ無に等しい、何の益もないと語っている。
  • 病気で苦しんでいる信仰者がいて癒やす力を与えられたいと思ったことがあるし、求めたこともあった。聖霊は臨むままにそれを一人一人に分け与えてくださる(13節)。聖霊が望まなければいくら求めても与えられない。
  • 今の僕にとっては、8節以下の賜物よりも、3節の聖霊の導きが大事である。だれも聖霊によらなければイエスは主であると告白できない。これはイエスを主と信じ洗礼を受けたときだけのことではない。信仰者の日々の生活で、イエスを主とする生き方をすることが求められる。キリスト信仰はキリストとの交わりの信仰であり、キリストとどのような関係で生きるかによって信仰生活が変わってくる。イエス・キリストを主とする信仰に生きることは生涯の課題である。

 (聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <聖霊>イエスを主と告白させてくださる方
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>イエスを主とする歩みができるよう、いつも聖霊の導きを求める。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日はイエス様を主とする生き方を導くのは聖霊であると教えられました。私はイエス様を救い主、そして私の主と信じています。この主との親しい交わりの中を生きていきたいと願っています。いかに親しい交わりに生きるか、それは一つの課題です。私は聖書を読み、思いめぐらし導きを受けることを通して、羊飼いなるイエス様について行く羊として歩んでいます。これは続けていきたいと思います。
  • イエス様は「わたしの名によって願うことは。何でもかなえてあげよう」(ヨハネ14:13)とおっしゃいました。「そうすれば父は子によって栄光をお受けになる」と続けられました。イエスの名によって願い、かなえられると父に栄光を帰すことになるとあります。
  • 先日読んだ本でヤボクの渡してヤコブが夜明けまで何者かと格闘した物語について書いてあることを読み心に残っています。ヤコブはその相手に「祝福してくださるまでは話しません」と語りました。祝福を受けるまで執拗にイエス様に祈り続けることも大切だと思いました。私には大きな祈りの課題があるからです。
  • イエス様は私と共にいてくださり、約束をもって導かれます。「わたしの名によって願うことは。何でもかなえてあげよう」との約束を握りしめ、この約束がかなえられるまで執拗に祈り続けることにします。イエス様は私の主なる方として約束して下さいました。この約束の実現を体験し、イエス様がまことに主であることを告白できたらと思いました。
  • 天の父よ、イエス様の御名によって祈る私の課題を聞きあげて下さい。そしてイエス様の約束が真実であったと知らせて下さい。
☆与えられた導き
  • 私にとって大きな祈りの課題を執拗に祈る。