第一テサロニケ 5章9~11節

2020年8月5日

(内容)

  • 主が再臨された時、私たちは神の怒りに定められてはおらず、救いに定められている。イエス・キリストを信じた者は救われ、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになる。信仰者として生きるとは、主と共に生きることである。

(黙想)

  • 信仰者として生きるとは、どういうことか。それはさまざまに表現される。ここでは「主と共に生きる」ことと書かれている。4章17節では、主が再臨されたあと、私たちは「いつまでも主と共にいることになる」と書かれている。つまり私たちは、今主と共に生き、そして永遠に主と共にいることになる。
  • となると、主と共に生きることを喜ぶことが大切となる。そうすれば私たちは永遠を喜んで生きることになる。主と共に生きることが喜びとなっていなければ、永遠に主と共にいることが喜びでないかも知れない。すると神の国は喜びのないものとなる可能性がある。すると神の国はさいわいな場所とは言えなくなる。
  • 主と共に生きることを喜ぶ場合、まず第一に私たちが主イエス自身を喜ぶことが大切となる。主を喜ばずして主と共に生きること、主と共にあることを喜ぶことはできない。
  • 主とは誰なのか。イエスは弟子たちに言った。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。私も答えなければならない。主イエスから直接問われているとして、私も答えなければならない。それは私の本心からの答えでなければならない。
  • パウロは、ガラテヤ書で「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」語る(ガラテヤ1:15~16)と語る。パウロは、主イエスだ誰か、神が示してくださったと語る。
  • 私たちが主イエスを本音でどう受けとめているのか。私たちは本音で受けとめている主イエスと関わって生きている。本音で受けとめている主イエス、それは神が私に示して下さった主イエスといえる。私たちの場合、教会の礼拝説教で、また聖書を読む中で、主イエスが誰か、知ることはできる。知識をいくら集めても信仰にはならない。自分が主イエスを正直、どのように受けとめているのか、それが私たちの信仰生活で現れている。
  • 自分の信仰生活を顧みれば、自分が主イエスをどのように受けとめているのかが分かる。パウロは神から主イエスが誰かを示され、福音を宣べ伝える者とされている。自分にとって主イエスとは誰なのか。私たちはその方と永遠を共に生きるのである。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方
  • <御父>私たちを怒りに定めず、救いに定める方。
  • <御子>私たちのために死なれた方である。
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>主と共に生きること
  • <勧め>主と共に生きるべく、互いに励まし合い、また自らを向上させること。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神、今日も大切なことを教えられ感謝です。救われた者として「主と共に生きる」ことが信仰に生きることであると教えられました。また私たちは永遠に「主と共にいる」ことを教えられました。主と共に生きることの大切さをあらためて知りました。今主と共に生きることが喜びとなってこそ、幸いな永遠を生きることができます。 天の父よ、今日は主イエスから「あなたは私を何者というか」と問われたように思いました。自分は主イエスをどのようなお方として受けとめ、主と共に生きているのか。そのことを明確にする機会を与えられたことを感謝します。
  • 主イエスをどのように受けとめているのか、それは私の歩みで明らかになっていますから、自分の歩みを振り返ります。言い換えると私はイエスをどのように信じているか、ですね。
☆与えられた導き
  • 自分は主イエスをどのようなお方と信じ受けとめているのかを明らかにする。

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  • 主イエスは、私のために十字架にかかり、私を罪による神の怒りから救い出してくださった。主イエスは私の救い主である。
  • 主イエスは、生き方を教えてくださった。自分のために生きるのではなく、神に仕えて生きることを教えてくださった。自分のために生きることは空しく、神に仕えることにこそ生きる意味があると教えてくださった。主イエスご自身、自分のために生きることなく、十字架の死に至るまで神に従順に歩まれた。
  • 主イエスはあるいは神は、神に仕える生き方として、牧師としての働きへ私を導いてくださった。
  • 主イエスは羊飼いとして羊である私を導いてくださる方である。主イエスは聖書の言葉を通し手私を導いてくださるお方である。聖書の言葉を日々思いめぐらし、主イエスと共に生きている。主イエスは神の言葉が肉となられたお方である。神の言葉によって生きる、それは私にとって主と共に生きることである。
  • 主イエスは主として私が従うべきお方であり、主イエスに倣う生き方を心がけてきた。

*最近思うことがある。

  • み言葉を大切にし、御言葉と共に歩んでいるが、主イエスと共に歩んでいるという思いが弱い。
  • 上に書いた文章をよく読むと、イエスは私に何をしてくださったのかは書かれているが、主イエスがどのようなお方なのかは書かれていない。
  • ここに自分の弱点があるのではないか。