コロサイ書 3章16~17節

2020年6月12日

(内容)

  • キリスト者たちが共に集い、キリストの言葉を分かち合い、神をたたえることが勧められる。そしてイエスの名によって何事も行い、父なる神に感謝することが教えられる。

(黙想)

  • コロサイ教会の人たちは私たちと違い、個人個人が聖書を持っているわけではない。印刷技術が発展していないから。聖書からキリストの言葉を知ることはない。パウロなど伝道者からキリストの言葉を聞いた、あるいは神の言葉を聞いたといってよい。それを心に宿すのである。真剣に説教を聞き、心にとどめたのではないか。
  • そして自分がどう受けとめたのか、互いに分かち合うように勧められる。分かち合う中で、互いに教えられ、諭しを受けるのだ。それによって御言葉が心に刻まれる。そして神を賛美しほめたたえる。そして何を話すにせよ行うにせよ、イエスの名によって行い、神に感謝する。御言葉によって押し出されての歩みがなされる。信仰者の交わりのすばらしさを教えられる。
  • 私たちは各自が聖書を持っている。礼拝に出席して説教を聞く。礼拝が終われば帰宅する。聞いた説教を他の教会員と分かち合うことはあまりない。日曜に聞いた言葉を忘れて一週間を過ごすこともある。
  • 聖書はひとりで静かに読み思いめぐらす人もいる。それでよいとする人も多いと思う。他者と分かち合うことは面倒だし、分かち合う時間を作るのはむずかしい。みんな忙しい。分かち合えば、他者の分かち合いの言葉の豊かさ、深さを聞いて、劣等感を抱いたり、羨望を抱いたりするかも知れない。ひとりで読む方がよい、そう思う人もいるだろう。
  • 現代では、ここに書かれているような分かち合いはあまりなされていない。聖書にこの分かち合いが書かれているが、このような分かち合いがあることを知らない人も多いのではないか。
  • 僕も妻もデボーションをしている。でも分かち合いはしていない。僕の中に個人主義的な心があるのかも知れない。妻との分かち合いを一週間に一度はしてもいいのではないか。妻に聞いてみよう。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日の聖書はすばらしい箇所です。これが普通に行われる教会になったら、教会はキリストの体としてすばらしい教会になると信じます。しかしこのような分かち合いは、「明日からやりましょう」といって始めることができるものではないことを思います。一人二人と聖書を読む人が増え、分かち合うことが少しずつ行われるところから始まると思います。
  • 牧師として教会に仕えていた時、牧師同士の分かち合いや、教会員との分かち合いを行ってきましたが、今は、引退の身。ひとりで聖書を読んでいます。今日、あらためて気づかされたことは、妻も聖書を読んでいるので、分かち合いをしてはどうかと思わされました。まずは自分自身が分かち合いに生きることを始めようと思いました。
  • 今日、分かち合いを妻に提案してみたいと思います。
☆与えられた導き
  • 分かち合いを妻に提案する。