コロサイ書 1章24~29節(3)

 2020年5月19日

(内容)

  • パウロはコロサイ教会のために苦しむことを喜びとしていると語り、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしていると語る。

(黙想)

  • パウロは「わたしはあなたがたのために苦しむことを喜びとし」(24節)と語る。さらに「すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し教えています。このために、わたしは労苦しており」(28~29節)とも語る。パウロは労苦を喜びとしている。福音を伝え信仰者の成長に仕える、僕はこのパウロに共感する。福音宣教者は、このような労苦を喜びとするものだと考える。
  • この箇所の段落の最初では「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしている」とパウロは語る。これは具体的にどういうことなのか。
  • 「キリストの苦しみ」。その頂点は十字架の苦しみである。人々から受け入れられず、反発され、迫害され、十字架の死を遂げる。それは人々を救うために味わった苦しみ。キリスト自身の苦しみが不十分だったということはない。不足があったということではない。この「キリストの苦しみ」のおかげで、私たちは救われたのである。
  • 「キリストの苦しみの欠けを満たす」とはどういうことなのか。牧師人生を顧みて、自分が「キリストの苦しみの欠けを満たしている」と思ったこと、感じたことはない。ただ福音宣教者は成功者ではないこと、従って労苦を伴うことは知っている。伝道が思い通りに進まないとき、落胆しそうなとき、十字架のイエスを思う。主イエスは人々の反発を受け、弟子たちにも見捨てられて十字架の上で亡くなった。人間的に言えば挫折をしたということができる。主イエスを思うとき、泣き言は言っていられないというか、伝道が進まない労苦は主イエスは知っておられると思うことはあったし、そのようにして自分を励まし福音を宣べ伝えてきた。
  • パウロはなぜ、「キリストの苦しみの欠けを満たす」というような表現を使ったのか。それは何を意味しているのか。救いという点でキリストの苦しみには欠けはなかった。キリストの苦しみは人類を救うのに十分であった。とすれば、「キリストの苦しみの欠けを満たす」は比喩的な表現となる。自分もキリストの苦しみにあずかるということか。

フィリピ1:29
つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。

マタイ5:11
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

  • 「わたしの内に力強く働くキリストの力」。パウロはどんな風にキリストの力を感じているのだろうか。自覚しているのだろうか。キリストの力が働いているとただ信じているだけなのか。僕は神の力を身に帯びたという経験はない。聖霊の導きを受けていると思うことはある。パウロはこんな祈りをしている。

エフェソ 3:20
わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、

  • ペトロはパウロは、癒やしなどの奇跡を行ったことがある。力ある業といえる。私たちはそのような力を真剣に求める必要はない。かつて教会員に病人が多いことがあり、真剣に癒やしを祈ったことがある。しかし僕に癒やしの奇跡は起きなかった。パウロは、彼自身が何か神秘的な力を帯びていることを語っているのではないだろう。彼を宣教の務め、信徒の教育へと励ます力を考えてよいのではないか。忍耐する力も含まれるだろう。それは御言葉の力と言えるのではないか。
  • あるいは、パウロはキリストへの祈りを通して力を与えられていたのかも知れない。パウロとキリストとの交わりは深い。パウロは、今死んでキリストのもとに行きたいとさえ願う。それだけキリストが近い存在になっている。パウロの内に力強く働くキリストの力、それは祈りを通して与えられる力かも知れない。祈りが終わったとき、力に満たされて働くことができる。そんな力をいっているのかも知れない。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>御子の力は、私たちのうちに力強く働き、私たちは闘うことができる。
☆神が求める私たちの生き方
  • <模範>キリストの苦しみに倣う。パウロに倣う。キリストのための苦しみを味わう。それを喜ぶ。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神、パウロが教会に仕える働きにおいて労苦があっても喜んでいます。そしてキリストの力が自分の内に力強く働いていると証しをしています。伝道者のあり方として深く教えられるように思います。キリストの力がどのようにしてパウロに働くのか、それは分かりません。しかしキリストとの交わりの中で、キリストに祈ることを通して与えられる力のように感じます。
  • パウロはみ言葉をあますところなく伝える務めを与えられたと書いています。福音があますところなく宣べ伝えられることを私は願っています。すべての説教者が、福音とは何か、問いを持ち、福音をあますところなく宣べ伝えるようにと願い祈っています。その他、課題としての祈りも幾つもあります。心を新たにして、キリストに祈り、励まされたいと思います。キリストの苦しみにあずかりながら、今置かれた場所で誠実に福音宣教の働きを続けられるよう、祈ります。
☆与えられた導き
  • 誠実に福音宣教の働きを続けられるように祈る。