コロサイ書 1章15~20節 キリスト告白

2020年5月12日

(内容)

  • 御子がいかなる方かが語られている。古代のキリスト教の信条に採用されている表現が多くある。

(黙想)

  • 御子イエスがいかなる方かが告白されている。御子は「すべてのものが造られる前に生まれた方」とある。御子は神によって存在させられたのであり、被造物なのかどうか、古代においては神学的な論争が行われた。あらゆる権威が御子によって造られたとある。そうだとして、事柄としては今の自分には身近には感じられない。すべての権威は神に由来するので人は上に立つ権威に従いなさいとパウロは教えた。
  • このようなキリストの権威、神の権威についての考えを今日の人々は受けとめていない。大統領にしても首相にしても選挙によって選ばれている。選ばれた人には、選ばれたのは自分に力があるからと考えているのではないか。権威を持つ者で神に仕えるという意識を持つ人はいない。社会は世俗化している。
  • 神は御子の内に満ちあふれるものを余すところなく宿らせたとある。いったい、何を宿らせたのだろうか。「満ちあふれる神性」が宿っている(2:9)。イエスは人となられた神である。しかしなすがままにされて十字架の死を遂げたイエス。救い主にしては何も持たない貧しい姿のイエスに見える。イエスの内に満ちている神性とは何のことだろうか。イエス・キリストがいかなる方か神学的にはすぐれた言明なのだろうが、正直、ピンとこない。ピンとこないということは、イエス・キリストについて僕は充分分かっていないということかも知れない。
  • この箇所は神が主語となっていて、御子が何かをしたという表現はない。コロサイ書では「イエス」という言葉は3章17節で一回用いられるだけで、あとは「キリスト」が使われている。神は御子によって万物を御自分と和解させたとある。この和解は、現代はもっと強調されていい。信仰は神との交わりに生きることであり、神との和解があってこそ、交わりが成立する。福音が罪の赦しにあると強調されると和解の影が薄くなり、信仰が神との交わりであることの理解もうすれていく。和解がなされているから、信仰者はもはや罪に定められることがない。和解が強調されないと、罪の赦しが福音となり、罪に打ち勝てない現実があると、自分が罪深い者であるとの考えが信仰者を支配することもある。
  • 罪の赦しについては、すでに14節で語られていた。そして20節では十字架の血によって平和が打ち立てられ、万物が神と和解させられた書かれている。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御父)御子の血によって平和を打ち立て、万物を御自分と和解させたお方。
  • (御子)見えない神の姿である。
  • (御子)すべてのものが造られる前に生まれた方。御子において万物は造られている。
  • (御子)教会のかしらである。
☆神が私たちに求める生き方
  • なし

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日の聖書箇所はイエス・キリストがいかなる方かを告げています。古代においてのキリスト論争を思い出しますが、今の時代を生きる私にはピンとこない面があります。御子はキリストの体である教会のかしらであるという重要な言明があり、また十字架の血によって、平和が打ち絶えられ、神は万物を御自分と和解させたとの重要な言明もあります。これはロマ書の5章「私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」の記述を思い出しました。
  • 今日の箇所は、神学的な言明であり、黙想が広がりませんでした。
☆与えられた導き
  • 特になし