ヨハネ福音書 20章1~10節

2020年4月14日

(内容)

  • 日曜の朝早くマグダラのマリアが墓に行くと墓石が取りのけてあるのを見た。彼女はペトロにそのことを伝えた。ペトロとイエスの愛された弟子は走って墓に行く。墓の中に入るとイエスの遺体はなく、遺体を包んでいた亜麻布が残されていた。

(黙想)

  • マリアは墓の中に入らなかったのか。入らなかったとすればなぜか。気味が悪かったのだろうか。一種の恐れがあったのかも知れない。ペトロともう独りの弟子は墓に向かって走ったが、並んで走ることはしなかった。それぞれのペースで走り、もうひとりの弟子が先に着いた。一緒に走ってもいいのにと思うが、早く行きたいとの思いがあったのか。もうひとりの弟子は先に着いたが、中をのぞくだけで中には入らなかった。ペトロに対して遠慮をしたのか。
  • 状況から判断すると、まずイエスはよみがえり、頭を包んでいた布をとった。そして歩きながら自分を包んでいた亜麻布をほどいた。そして墓から出たことになる。そんな墓の中にペトロと弟子は入ったことになる。
  • もうひとりの弟子は「見て、信じた」とある。ペトロはどんな判断をしたのかは書かれていない。もうひとりの弟子は何を信じたのか。マリアは「主が墓から取り去られました」とペトロに報告した。このことを弟子が認めたということか。それともイエスが復活したことを信じたのか。よくわからない。
  • 弟子たちはラザロが生き返ったことは目撃している。他の福音書では、イエスは苦しみを受け死んだ後復活することを弟子たちに告げている。でもヨハネ福音書では、イエスはご自分の復活について弟子たちに語ってはいない。おそらくもうひとりの弟子は、イエスは生き返ったことを信じたと思われる。
  • 9節に大切なことが書かれている。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」。問題は、イエスの復活が旧約聖書のどこに預言されているか、である。イザヤ書53章がありありとイエスの十字架の死を預言している。しかしイエスの復活を預言しているとされる聖書の箇所は思い浮かばない。使徒言行録を見ると弟子たちはイエスの復活について、旧約聖書を示し、預言されているとの立場を取っている。それは詩編16。現代人の理性からするとこの詩編がイエスの復活を指し示していると解釈するのは無理があると僕は思う。
  • イエスが旧約聖書が預言し登場を待ち望まれた救い主、メシアであることをヨハネ福音書が伝えていることは同意する。この時点では、弟子たちは戸惑いの中にあると言ってよいのではないか。
  • 私はイエスの復活を信じる。大事なのは、イエスの復活という出来事が起きたと信じるだけではなく、イエスの復活の意味を信じることである。

*この箇所からはメッセージが聞こえてこないので、ここでおしまい。