ヨハネ福音書19章16~22節

2020年4月1日

(内容)

  • イエスは十字架につけられた。ピラトは罪状書を書いた。「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」。しかもそれはヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていた。祭司長たちは罪状書の内容を「この男はユダヤ人の王と自称した」と書き換えるようにピラトに頼んだが、ピラトは断った。

(黙想)

  • ヨハネ福音書における十字架の場面では、人々がイエスをののしる情景は描かれていない。他の福音書も罪状書きに触れているが「ユダヤ人の王」と書くのみ。おそらくヘブライ語で書かれていただろう。処刑されたイエスを見るのはユダヤ人だから。ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていたとするのはヨハネ福音書だけ。ヘブライ語はユダヤ人向け。ラテン語はイタリア人向け。つまりローマ帝国向け。ギリシャ語は当時の公用語。当時地中海周辺の国々で用いられていた。イエスはすべての人の王であるとの罪状書となっている。イエスはすべての人のメシア・救い主であるとの主張があるように思う。
  • イエスの三職という言葉がある。イエスは預言者として人々を教えられた。イエスは祭司として自分自身を罪のいけにえとしてささげられた。イエスは王として今、支配しておられる。ヨハネ福音書の十字架の場面は、イエスが王であることを明確に訴えている。
  • イエスを信じる者は王なるイエスに従う者。恭順の態度を示す者となる。そのことが教えられているように思う。イエスと私の関係は、どうなっているのか。これからどうするのか。
  • この箇所には人間の意地の張り合いが見られる。ピラトはイエスの無罪を主張したが、祭司長たちが「もしこの男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」と語り、イエスを釈放するなら、あなたは皇帝に背いていると暗黙の内にピラトに語っている。そしてピラトにすれば、屈辱を受けたことになる。そこで祭司長たちが罪状書きの変更を求めたとき、ピラトは「私が書いた者はそのままにしておけ」と語り、意趣返しをしている(恨みを晴らしている)。
  • この場面においてイエスはなすがままにされている。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)御子イエス様は、私たちの王である。
☆神が私たちに求める生き方
  • (警告)自分のプライドを保つための意地の張り合いはむなしい。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、ヨハネ福音書を読んでいると、イエスと私の関係について教えられます。私はイエス様をどう思っているのか。イエス様にどう関わろうとしているのか。それが神さまの御心にふさわしい態度なのか、問われるような思いがします。
  • 羊飼いと羊の関係、ぶどうの木とぶどうの枝の関係でイエス様と私たちの関係が示されてきました。今日の箇所はイエス様が王であることを教えています。私たちがイエス様との関係に生きることができる、それは恵みであり幸いなことであると信じます。私たちは救い主がおられるからです。
  • 今日の箇所ではイエス様は私たちの王であると教えられます。イスラエルの民はあなたを王として歩むべきでしたが人間の王を選びました。私たちには人間の王は必要ありません。しかし私たちを守り導き、祝福してくださる真の王がおられることは喜ばしいことであり、感謝なことであり、私はイエス様を王として歩みます。
  • 天の父、今思い出します。「わが君イエスよ、我を清めて、良き働きをなさしめたまえ」。イエス様は王として、私の人格を支配する方ではなく、私の人格を高めてくださるお方ですね。うれしいです。今日は、讃美歌の中で、イエス様を「わが君」と歌っている曲を捜し、賛美したいと思いました。イエス様を賛美します。
☆与えられた導き
  • 讃美歌を捜し賛美する。3曲見つける。
    讃美歌461 主我を愛す
    讃美歌280 わが身ののぞみは
    讃美歌199 わが君イエスよ 罪の身は
    讃美歌356 わが君イエスよ みゆるしなくば
    讃美歌519 わが君イエスよ 浮世の船路