ヨハネ福音書 18章12~27節

2020年3月25日

(内容)

  • ペトロはイエスのことを知らないと語り、イエスを裏切った。「あなたはあの人の弟子だ」と言われて否認した。弟子であることを否定したペトロ。

(黙想)

  • イエスの裁判とペトロがイエスを否認したことが物語られている。ペトロがイエスを否認したことは、マタイ、マルコ、ルカ福音書も伝えている。比較して読むと二つ違いがある。
  • 一つの違いは、ペトロの周りにいた人たちのペトロに対する言葉である。マタイ、マルコ、ルカにおいてはペトロに対して「あなたはあの人と一緒にいた」「あなたはあの人の仲間だ」と人々は語っている。しかしヨハネでは「あなたはあの人の弟子だ」。ペトロが弟子であることが強調されている。
  • 第二の違いは、ペトロが三度否認し鶏が鳴いたとき、マタイ、マルコ、ルカでは、ペトロは泣いている。イエスが「あなたは三度私のことを知らないだろう、と言う」と指摘し、「そんなことは言わない」と断固ペトロは否定した(マタイ、マルコ)。自分の強がりが打ち砕かれ、自分の惨めさにそして自分の罪に打ち砕かれ、ペトロは泣いている。しかしヨハネにおいては、ペトロは泣いていない。ヨハネ福音書ではペトロは弟子であることが強調され、泣かないでいる。
  • しかしイエスが復活した後、イエスはペトロに「あなたは私のことを愛するか」と尋ねる。ペトロに対して否認したことを思い出させつつ、なお自分を愛するかと尋ねている。ペトロに対してゆるしを与えようとしている。イエスを否認したことはイエスに対する裏切りである。
  • 日本では、「忖度」が問題となっている。自分より上の立場の人に忖度した言動をとる。ある意味良心にやましいことを行っている。良心の呵責を覚える行為である。それは保身のためでもある。そこには地位を失いたくないとの恐れもある。たとい自分の地位を守ったとしても、良心の呵責は残るだろう。不健康である。そういう人の人相は大抵よくない。自分自身を誇ることができないからだ。
  • ペトロは、「あの人の弟子ではないか」と言われて、瞬間的にイエスを否認した。恐れに捕らわれ、支配されての行動である。人間の弱さが表れている。この弱さが自分にあることを認めて生きることが大切だ。弱さゆえの失敗もあるだろう。弱さに流されてはいけない。弱さの中にあっても、神の助けを得て生きていきたい。
  • 「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(コリント一12:9)。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>弱さゆえの失敗をしたときは、悔い改めること。
  • <勧め>自分がイエスの弟子であることを自覚すること。
  • <教え>自分が何者であるのか、自分のアイデンティティーを知ることが大切。自分はイエスの弟子とのアイデンティティーに生きるなら、保身に走る必要はない。忖度をする必要もない。何があっても主イエスの弟子として堂々と生きていけばよい。たとい地位を追われても。窮地に追い込まれても。僕はそう生きたい。僕は神の守りの中に置かれていると信じる。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、自分がペトロだったら、私もイエス様のことを否認していたと思います。しかし今キリスト者として歩んでいますので、イエス様の弟子として歩む所存です。たとい恐れに捕らわれて瞬間的にイエス様に背く行為をしたとしてもすぐに悔い改めて、主に従う歩みをして生きたいと思います。
  • 小事に忠実な者は大事にも忠実と聖書にあります。結局、日々の平凡な歩みにおいてイエス様の弟子として生きることが大切であると信じます。小事に忠実な歩みが、いざという時にイエス様に従う歩みを可能にすると思います。
  • 今、二年間の無牧の教会に対する説教奉仕も終わりました。時間的にはゆとりを持てるようになりました。牧師を引退して今の自分の課題は、この時代の中にあって聖書を読み、祈ることと受けとめています。デボーションと祈りの生活を続けていくことができるように守り導いてください。
  • 今は新型コロナウィルスの感染拡大の中で、教会は礼拝や集会をどうするのか、課題を負っています。命を守るために集会を中止する、それは必要なことだと思います。しかし自粛ムードに流されてしまうのも問題です。あなたの御前に生きていく、それは決して安全・無難な道を歩むことではないと思います。
  • 諸教会が、あなたの前に悔いのない選択、決断をして行くことができるように導いてください。このような時だからこそ、礼拝を献げること、神さまをほめたたえることの大切さを覚えることができるように導いてください。
☆与えられた導き
  • 諸教会が悔いのない選択、決断をすることができるように祈る。